2014/6/14

「そののち歌会」6月  「そののち歌会」

とうとう梅雨空が続くようになって、梅雨の晴れ間ほど嬉しいものはないなんて思ってしまう日々です。インターネットで歌会というのは、住んでいる場所や年代を越えて一同に会せる良さがあるのですが、あまり若い世代の所に入ると苦しいような思いもあります。「そののち歌会」は今年で六年を迎えるそうで、いくつかの結社を越えて歌会をすると言うものだったのかと推察しています。今では私のような無所属な人も増えているようですが、年代も中位からお年の方もいらして、力のある方々が多く本当にいい刺激を受けられます。

第147回の歌会、お題は「ひも」でした。どうも苦手な題が続きます。まず思うのは「しおりひも」前に模も詠もうと思ってうまくいかなかったけど、今回も情緒に流れてしまってうなくいかない、そう言う時は猫と、これはうまく行ったけれど「そののち」には軽いかしらと、「あやとりのひも」で詠みました。18人18首で「しおり紐」が三首「あやとり」が二首でました。私の歌は

片隅でひとりあやとり遊んでた娘が明日ジューンブライド

例によって姪の事を考えていました。友人が「娘がいないのに女の子の歌が多いわね」と笑っていたけれど、昔死んだ姪、今手こずっている姪などが私の周りにいるし、私自身もかって女の子だったので歌いやすいのかもしれません。こちらにぴたりと来るコメントがなくて(そんな不満を言ってはいけないのだが、批判や指摘も含めて)しゅんとしたりしました。「ひとりあやとり」と言う言葉はもう一首の方でも出ていたので、今でもあるのだと思います。2点でした。
はじめの頃は点よりコメントが欲しいといっていたのに、この頃はやっぱり点も欲しいと思うのは人間なんですねー。天賞と次点他、私も一読ウーンと思ったいい時事詠でした。

2

2014/6/10

秀歌(32)宮柊二C『多く夜の歌』  秀歌読みましょう

『多く夜の歌』は柊二の第六歌集。昭和28年〜昭和36年の歌1251首を集めたもの、このあたりから歌数が多くなって脂がのってきたと言う時期になるのだろうか。昭和36年刊行(白玉書房)柊二48歳である。「コスモス」を立ち上げ昭和35年富士製鉄をやめるまでの間であり、後の読者としての私などは感じない気負いと努力の年月であったろう。本人が巻末に「作歌時間が夜に限られてきました。自分のものとした夜の時間を、絞るように大切にして、作歌してきたといふ実感があります。」と書いていて、その実感が『多く夜の歌』と言う題(ただ読むと変な題だなと言う気もするが)になったのだ。

「コスモス」発進時にどれほどの規模であったのか、今私には分らないが主催者の責任は重かったろうし、その成功の為にも努力は大きかったであろう。しかし今でも歌人と言う人々は生活のための仕事を持ちそれも大きな会社に勤めていたりするので、二つの仕事をするのは当たり前のことだったのか、柊二の歌にも力強さとともにいわゆる「抒情」と言うものが戻ってくる。

竹群の空青々と音なくて寂しき春の時間ぞ長き

こゑあげてわれ人ともに笑ひたる一些事ありき勤務(つとめ)の中に

方図なくわが妄想裡に現れて跳躍し跳躍しけだものら過ぐ

両(もろ)の手に少女が部屋にはこびくる蠟の炎のきよきくれなゐ

早苗田の岸にしずまる村の口むらさきかなし桐の花咲き

空を抽(ぬ)くきのこの雲の凄惨にとほくかなしき子の貯金箱

空映す水のおもての草がくりひそかに曲(たわ)み神田川ゆく

人口の星廻る空ひるを澄みこのあたらしき空虚感はや

雛の日も近くなりつつしろたへの雪降れば清し貧しかるとも

父逝きし七日が程に春深く三椏の木に朝の蜂ゐる

黒犬の頭撫でつつをりふしのあらはしがたき孤独も遣りぬ

灯を明かく待ちゐし妻にたまものの絵を遣らん初めて愛を言はん

柊二のものとして認められている(現代ではとかく批判の対象となる)「寂しき」「かなし」「きよし」などの言葉も使われ、それは師の白秋のように甘くもなく、生活者としての実感に裏打ちされている。9首目の父の死を淡々と歌っているが、彼の肩に乗っていた重い(経済的にも)負担は少しづつはがれて行ったのだと思われる。そして退社をして歌人として立つことの不安も歌いつつ11首目で退職記念の絵画を「妻にやり」「愛を言はん」と打ち明けるように歌っている。

1

2014/6/6

紫陽花の道  短歌

「紫陽花の小路」といったらあなたの家の近くにもありますか。紫陽花は6月から咲き始めて山の方では7月も終わりごろまで咲き続けるので、この頃ではどこででも見かけるようになった。家の近くには小路ではなくて大きな通りの街路樹に植えられている所もある。お堀に添って北の丸公園に入る道なりに紫陽花の道があって、いっときは中々美しかった。紫陽花は手入れが難しいのかだんだんやぶからしが絡んだりして見た目も悪くなってしまった。そういう紫陽花は西洋紫陽花で、園芸種として作られた玉も大きくて色数も多いものである。六月と言えば紫陽花、と思うほど好きだったのに、このごろは他の花に心を奪われるのは「花言葉」移り気がこちらに移ってきてしまったのだろうか。

紫陽花と言えば鎌倉で昔は北鎌倉の明月院が有名だった。ここの紫陽花は水色の日本紫陽花一色で細い小路にずらっと並んでいたものだが、この頃はどうだろうか。今はテレビには長谷寺の方が「花の寺」としてよく出てくる。昔は立木観音だけの汚い所だったがお堂の立て直しや発掘調査(弟もやった)のあと様々な花ものを植えて人を呼ぶようになった。紫陽花も洋種を沢山植えて「あじさい寺」の名を奪っている。この書きようではお寺さんを悪く言っているようだが、決して悪いのではなくてどちらもお金儲けに色気があり過ぎるように思うだけだ。
先日鎌倉の叔母が亡くなって、主人がお葬式に出かけたけれど、教会と火葬場だけで時間がなくて家の方には寄れなかった。この頃はストリートビューのようなものもあって、道に面したあたりは見られるのだが、季節で変わっていくわけではないから庭の植木などはよく分からない。昔(私が結婚して、息子が小さかったころ)は鎌倉の家の横の坂道は北鎌倉から山越えで降りてくる化粧坂と言う坂だから、ハイキングコースで通る人々が「明月院」よりきれいじゃない」と言う声が聞こえたぐらい庭中に洋紫陽花がさいていた。色とりどりの花を切ってきてご近所にまで配った頃がなつかしい。手入れは義母と叔母がしていたので、義母が亡くなり叔母が寝付いてからは手入れもままならなかったろう。義兄が一人になった庭は手入れも容易ではないだろう。

日本全国に紫陽花の小路ができ、鎌倉は紫陽花時でなくても人で混み合う。我が家のベランダで今年も額紫陽花の「墨田の花火」があふれるほど蕾を付けている。昔は地味で好かれなかったガクアジサイも、園芸種が出来て人気者になった。今日の歌は白秋の童謡風に、

あじさいの小道をゆけば辿りつく ああ母様のうまれたお家                             多香子
3



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ