2015/4/10

今年の桜  短歌

毎年春は「桜詠」といって桜を詠んできたが、今年は母がおとなしくしそうもないので、観桜には期待しなかった。それでも三月の終わりにお医者に行った時、もうずいぶん咲いた樹もまじえて市ヶ谷のお堀沿いの桜が見られた。
何年にかに一度ぐらい三月中に咲く年があって、入学式などには生憎だが混まないうちに花見ができることがある。四月に入っての急速な開花に突然のみぞれ交じりの雨。まったく今年はなんという桜時だったのだろう。

家の近くは九段の千鳥ヶ淵のさくらが一番だが、上野公園もそう遠くない。この頃は家から出ないので、ゆっくり見ていられないなら記憶の中の桜に酔えばいいと思う事がある。そのために一番きれいな桜の写真を撮って置こうと思う。だんだん年を取ってくると感動が薄くなると言うが、そうではなくてその時感じた思いは実感として消えていくのが速くなるという事だろう。三分も覚えていない母の様子を見ているから、いずれ自分もそうなると言う思いがある。

桜前線と言うのはソメイヨシノの開花を言うのだが、桜には何百種もの種類があって、東京でもこの頃は枝垂桜が随分植えられるようになった。しだれ桜の美しさは色が少し濃い物など華やかな中に艶に儚げな風情があって、私もソメイヨシノより心魅かれるようになった。物語のあやかしは枝垂桜の風に吹かれる宵に現れるのではと空想するのも楽しい。

そして大島桜も山桜も散ってしまうと、少し経って八重桜の出番になる。八重桜は重くてと嫌う人もいるが、白からボタン色までさまざまに美しいものである。たしかに濃い色の八重桜は厚化粧の年増女を思わせるが、それぞれに表情のある桜を人の少なくなった公園などで見るのはなかなかの至福ではないか。夕暮れにちらちらと風に散りそめる桜の風情は「妖しい」という字がふさわしいように思われる。

月光に舞い降りたかに桜花 古木の影はぬらと暗くて 多香子
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2015/4/5

四月の歌  短歌

以前どこかに「北原白秋の命日はヒヤシンス忌」と書いたことがあったが、私の思い違いか今では立原道造の命日が風信子忌となっていました。白秋は「ヒヤシンス薄紫に咲きにけり・・」の歌でも知られているため、白秋が好きな私はその音感がすきで「ヒヤシンス」をHNにつかってもいます。
二月の終わりのまだ寒いころ遠くのスーパーまで車で行って、外の箱に哀れに並んでいたヒヤシンスの鉢を「白」と言うのに魅かれて買ってきました。三球のまだ固い蕾がなかなか膨らまなかったのですが、三月の半ばのあたたかさにすくすくと伸びて綺麗な花を咲かせました。ヒヤシンスというのは小さな花の集まりのような物で、すべてが開かなければ美しくないのだと今回知りました。

四月の歌は写生だけではないけれど、目の前に花を見ると歌も割合楽に浮かんで来るので、ヒヤシンスで歌を詠みました。五首を並べて見ます。

「ヒヤシンス」
ヒヤシンス道ならぬ恋など知らぬげに白く気高く花咲きい出ぬ

あの人は死んでしまったずっと前 細い雨降るヒヤシンスの上

ヒヤシンス青ざめた顔で泣く春よ、恥ずかしいのは僕のしたこと

風信子人待ち顔に咲く夕べ振り返るまい昨日の恋は

低気圧過ぎ行く度に春をよび白ヒヤシンス淋しくてひとり

三首目は「うたの日」で花束を頂いた歌。お題が「恥」だったので面白い歌になりました。連作には詠みかえようかと思ったのですが、せっかくだからとそのままにしました。全部の花が開いたヒヤシンスはとても豪華で美しかったのですが、歌に詠もうとするとなぜか「寂しげ」と言う印象になるのは不思議です。ヒヤシンスの語源がギリシャ神話の「ヒュアキントス」による美少年の悲劇からでしょうか。
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