2013/12/10

帰る家は(江戸川橋)  短歌

久々に母の事を書こうかと思う。母は書くことが憚られるような色々な事をしてくれるようになったので、私の歌も美しく夢見心地なものになってくるのは、日常生活の裏返しとおもう。
認知症でなくても人は年を取るごとに子供の頃が思い出されたり、もうなくなった家が懐かしく思われることだろう。しかし認知症の人は子供返りをするので、今いる環境がどうしても自分のものではないと思うらしい。私の母も月に一度か二度「帰りたい」が激しくなり「帰らなくては」「すぐそこだから」という騒ぎを繰り返す。

母が生まれて育った家は旧牛込区(今は新宿区)の山吹町という江戸川橋の近くだった。母が子供の頃神田川は護岸ではなく土の土手で上流には滝があったと言う。川の向こう側には細川さんのお屋敷があり(今の江戸川公園や永青文庫)その上の関口台はお屋敷ばかり、反対に母の居た側は下町の商店街だった。大通りは早稲田通りといって高田の馬場から早稲田大学への道だったから、母の生れた家は学生下宿を兼ねた旅館であった。小学校はその早稲田通り沿いにあって、戦後高校に転用され今は建て替えられて山吹高校となっている。その校舎が取り壊しの前にお友達と二人たずねて、懐かしさに涙したことも本人は忘れている。
昔よく買い物をしたと言う地蔵横丁という商店街は残っていて、入り口かどの「子育て地蔵」のお堂もきれいにして守られている。何年か前に母を連れて行ったが、商店街の道もカラー舗装され店もきれいになって賑わっているのに、母にしたら何の記憶の糸口にもならないらしく、私達もがっかりしたことがある。ヘルパーさんには「もうずっと江戸川橋には行ってない」と言っていたが(実は年に三回は連れて行っていた)この頃はそれも言わなくなったし、私達も連れて行くのをあきらめてしまった。
山吹町の家は戦災で焼けてしまい、一家は世田谷に疎開の後荻窪から上野へ出た。母の一番懐かしい家は、江戸川橋の家である。認知症のはじめの頃は、「帰りたい」といっても「焼けてしまってないでしょ」というと分かったのだが、このごろは「焼けたけれど、建て直した」とか「すぐそこにあって、お父さんお母さんが待っている」と言い張ったりする。そして「帰りたいけどいけないと言われた」と泣いても五分ぐらいで忘れてしまい、それを一日何回も繰り返す日が月に一回ぐらいあって、周りは大層苦労する。

私は幸いなことに高校の友達がみな介護経験者(現在の人も)なので、電話でいろいろ話せるのだが、みんな年を取ると「帰りた」くなるらしい。よく話に出てくるのは、私達もいずれそう言う時が来て、その時帰りたい家は何処なのだろうという事だが、今の生活に追われていると、果たして自分の心のふるさとは何処なのだろうと思わずにいられない。

帰る家はどこかと心たずねてもすすき野原に狐よぶのみ  多香子
3



トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ