2014/1/20

鎌倉の狸  短歌

前に大手町に出てきた狸の事を珍しいことのように書いたが、鎌倉の狸となるとまあ普通に居るだろうと思われる。しかし十数年前新聞にも出たが犬のジステンパーが移って、予防注射をしていない狸は随分死んでしまったと言う。そこへ今度はアライグマが入り込んで繁殖し今では害獣として駆除されようと言う勢い。狸だと思って餌を投げてやったら、帰って行く後姿の尻尾がシマシマだったと言う話も聞いた。
今日の狸の話も私が弟から聞いた又聞きの話で、徒然草にでも出てきそうな話だから皆様化かされないように気を付けて読まなくてはいけないと思う。

浄光明寺というのは鎌倉でも中々由緒あるお寺で、開基は1251年北条氏の時だが、足利氏の帰依を受け義満義直兄弟から所領ももらっていた。国の史跡として裏山に冷泉為相の宝篋印塔(お墓)があり、その後境内も史跡指定されている。冷泉為相は藤原定家の孫「十六夜日記」の作者阿仏尼の子供。歌の家冷泉家の祖である。定家の跡継ぎの為家には子供も多く後年暮らした阿仏尼と子の為相を溺愛したため死後遺産争いが起こって、阿仏尼が幕府に訴訟のため鎌倉に下向、為相も晩年は京から鎌倉に来て亡くなったとされている。このため藤原北家の歌の家は、二条、京極、冷泉と別れたと言うのは歴史の授業で習うところ。
浄光明寺の先の住職は考古学者で、弟を今の大学に牽いてくれた方だったが、数年前に急死して今は子息が寺を継いでいる。その方が亡くなる前の話だったと思うが、弟たちが「大三輪さんのお父さん」と呼んでいた先々代の老師の話である。この方はなかなかの僧で「徒然草」に出てくる僧たちのような俗っぽさはなくて、お寺の裏山を根城にしていた狸たちの事も自然に暮らしているのだからと知らん顔をしていたと言う。狸は夜行性で餌は貰ってもあまり人には近づかない。それがある日まだ黄昏ともいかない境内を歩いていた老僧のすぐそばまで、一匹の狸がよろよろと現われてぼろぼろながらきちんと老僧の前に座り、じっと顔を見上げたと言う。「大三輪さんのお父さん」は内心びっくりしたものの動ぜずに、「その様子だと命も長くなかろう、私に別れを告げに来たのは長年住んでいる狸の長老なのか。一族の後を頼みに来たのか。」と声をかけると、狸はまたじっと顔を見つめて、さすがにお辞儀はしないで、くるっと山へ帰って行ったと言う。
翌朝寺男が境内の端で死んでいる狸をみつけたので、老僧は「やっぱり」と死体を山に埋め「一族の事は安心せよ」といってお経をあげてやったと言う。これではまるで「狸も帰依する仏教説話」なのだが弟は本当の話だと言う。

読経に狸ばやしも加わって鎌倉の谷(やと)に月はかたぶく  多香子
6



トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ