2021/3/26

「花嫁人形」と新発田  

友人から今度建設された湯島の「新潟県人会館」で蕗谷虹児の「花嫁人形」の原画を展示するからと、手紙をもらった。コロナ下でもそれほど混まなければと思ったけれど、結局機会を逃してしまった。その絵は20年ぐらい前に母と新発田の「蕗谷虹児記念館」で見たことがあるから良いのだが、何より母との旅のなつかしさにふれたかったのだが。
あの時は今の雅子皇后さんが皇太子妃になられたすぐあとぐらいで、母おすすめの「瀬波温泉」に泊まって、冬の日本海をみたいという旅だった。瀬波温泉は村上市の海際で小和田家の先祖が内藤藩の家来であったということで当時脚光を浴びていた。そこへ一泊するのに新幹線で新潟に出て乗り換えついでに手前の新発田市に寄って観光をしたのだ。

新発田城址のそばに、母が好きだった「蕗谷虹児」の記念館があった。蕗谷虹児は挿絵画家として竹久夢二の知己を得、詩人としても名を成した人だったが私たちはその挿絵の「花嫁人形」には記憶はなくて、歌だけが残っている。作曲の杉山長谷夫の娘さんが中学の音楽の先生だったことも記憶に残る。

「花嫁人形」作詞 蕗谷虹児  作曲 杉山長谷夫

@金襴緞子の帯締めながら 花嫁御寮は何故泣くのだろう

B姉さんごっこの花嫁人形は 赤い鹿の子の振袖着てる

C泣けば鹿の子のたもとが切れる 涙で鹿の子の赤い紅にじむ

歌詞は短いが五番まである物から引かせてもらったが、哀切な感じのする歌である。子供心に「なぜ泣くのだろう」と思ったものだ。当時の童謡は哀しいものが結構あって、お嫁さんに行くことは晴れがましいなりに実家と別れて「嫁」という立場になることへの哀感があったのだろうとおもう。戦後の子供の私はお嫁さんは華やかなものと思っていたがよその家に「嫁に行った」叔母はそれなりに苦労したらしいことは小耳に挟んでもいた。虹児の最初の妻は14才で結婚、大層な人生を送ったらしい。大正期としてもかなり幼いものだったので、哀しい予兆はあったのだと思われる。

さみどりの誘うまどろみ木陰にはレース模様の姉様人形    多香子
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2021/2/19

去年今年  

コロナに「失言問題」そこへ東北の地震とか、日本列島大丈夫か。お気楽なマスコミにも失望しています。

去年の二月は主人の手術(失敗と書くとみんな笑うけれど)から二度目の入院でほぼつぶれ、その間にプリンセス号のコロナ騒ぎを毎日テレビ画面に見ていました。医師たちは「コロナより院内感染のほうが怖い」と言ってコロナはまだそのあたりにはいないものと思われていたみたい。主人が退院して三月四月とあれよあれよとコロナが広まり、緊急事態宣言、主人の外来診療もおっかなびっくりという感じに二ヶ月に一度の割合になりました。

12月に病院の入院階でクラスターが出たとホームページに出た時は主人の入院時でなくてよかったという思いでした。主治医は内科の医師はPCR陰性だったからねと言いました。
無我夢中というのか、一年がすごく早くて思い返せばそうだったとなるけれど、いざ罹ったら家はどうなるという気持ちからピリピリ暮らしました。それでもどこかに慣れと言うものはあって、

つんつんと余分に伸び行く車輪梅あそこはコロナの病院の垣根  (多香子)

こんな歌を歌会にだしたことがありました。写生ではあったけど後から考えたらこれも「誹謗中傷」になりかねない歌だなあと考え直したのです。自分では病院の裏口から出て、植え込みを写生したもので悪意はないのだけれど、SNSで「場所特定」とか「犯人はこいつ」などとさらし上げをするような感じにも取られかねませんね。

暮れから感染者の急増、一月の緊急事態宣言の二度目の発動、わあ凄いなあという思いなのだけど去年の緊張感に比べると「あきらめ」の気持ちが強いような気がします。この18日に外来の予約日で病院に行きました。お医者は「心臓、腎臓は悪いなりにおちついているから、よかった、よかった」と言って、二ヶ月後の予約をとり、薬を出してくれました。「コロナが落ち着いたら、って言ってもねえ・・・」とワクチン接種の進行に疑問をもっているみたいでした。
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2021/2/12

路面電車「都電」の思い出  

路面電車というと、函館の市電から松山の「坊ちゃん電車」、京福電鉄嵐山線、岡山、広島長崎と全国ではまだ17路線もあるらしい。私にとっては「都電」と呼んでいた一両のチンチン電車がなつかしいけれど、唯一残っている「都電荒川線」はなんだか新しい電車のような気がしている。小金井の「東京建物園」に展示されている昔の黄色い電車をみるとわあーっと思ってしまうのに。

私の子供の頃(戦後数年後には)都電は23区内を縦横に張り巡らされていた。小二まで上野にいたので、四谷の叔母の幼稚園に泊りがけで行くときには、根津から池之端まで行って乗り換え、また須田町で乗り換えて四谷本塩町まで三本を使ったと思う。乗り換え運賃はなくて、全線一律料金だったと思う。都電にはコースごとに番号があって「何番電車」に乗ると呼んでいた。ずいぶん行先と番号を覚えていたのだけど、このごろあれッというほど忘れてしまったのは哀しい思いだ。

神田に引っ越してからは靖国通りを走っていた都電で、銀座でも(新橋行)四谷でも(新宿行)一本で行かれたから、叔母の家には子供だけで行くことが出来たけど、当時の都電は凄く混んでドアが閉まらないなどという事もあり、親は運転手さんに運賃を渡し「どこそこまでお願いします」と言って運転席の傍に乗せてもらったものだ。と言ってそのスペースは運転席のしきりはなくて、金属の棒が一本かけてあるだけのところだった。私は小学生だったからそこではなくて、弟がそこにいれてもらっていた。私でも都電の運転は面白いと思ったぐらいだから、弟は大層嬉しかったに違いない。それでもいたずらもしないで、おとなしく運転を眺めていたから問題にもならなかったが、その後の時代だったら禁止事項だったのではと今になって思う。

都電は私が大学に行っているときまでは走っていた記憶があるので、高度成長の昭和40年代に徐々にバスに替わって行ったのだと思う。(地下鉄も大分出来ていたし)

夢の夜は母の笑顔に会いに行くちんちん電車に乗ってあの日へ  多香子
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