2015/4/25

惟喬親王出家「伊勢」八十三段  古典(伊勢、源氏など)

前に「交野の桜」として書いた、業平の一族が希望を持って仕えていた惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子で母君は紀氏の人であった。紀氏では久々に即位の望める皇子が生まれたと喜んで、大事にまた親しくお仕えしていた。皇子は業平より20歳年下で、見識もありすぐれた人物と書かれているが、「伊勢」では業平がいつまでも若々しいのでもっと年が近いような気がしてしまう。
紀有常も共に主従仲良く、歌に酒に興じていたのだが、天皇の第二子は母が藤原氏の姫であった。当時もう藤原氏の勢力は非常に強く、業平も罪を得る前に東下りをした程だったから、惟喬親王も自分が天皇の地位を望んでいないことを自ら示さなければ、命も危ういこともあったのだろう。

親王は27歳で突然出家なさって、小野の里(山城の国、今の大阪府)に隠棲なさってしまう。業平たちはがっかりもしたが、どうすることもできずに宮廷にいた。この頃の出家と言うのは本当に世を捨てるので、宮廷中心の都の官位も捨ててしまっては一族の力が落ちてしまうのだろう。親王はさすがに朝廷から封(食い扶持のような物)を与えられて侘しく暮らしていく。
明けた正月に業平は雪深い小野の里に親王をお尋ねし、色々と語り合ってお慰めをするのだが、宮廷の勤めもあって泣く泣く帰って来た。その時の歌

わすれては夢かとぞ思ふおもひきや雪踏み分けて君を見むとは

「わすれては」はこの現実が本当だと忘れてという事だと池田亀鑑先生の解説にある。「おもいきや」は思っても見なかったとなって、業平の心情の哀れさ親王への愛情のこもった歌となっている。この場面は前段からの場面転換の急なこと、主従の思いなどで読む者の心に残る一段であった。「あった」と過去形なのは現在ではあまり「伊勢」が読まれなくなり、殊に惟喬親王の話など忘れられていると思うから。次に引く歌は短歌ではなくて、与謝野鉄幹が「人を恋ふる歌」として書いた歌の六番で

人やわらはん業平が 小野の山ざと雪を分け
夢かと泣きて齒がみせし 昔を慕ふむら心

(むら心はよく分からないが「むらぎもの」がこころにかかる枕詞であるところから単に心の事らしい)
というのがあり、「伊勢」のお歌をそのまま引いている。その頃はかなり有名な話であったと言う証かとおもうが、今は鉄幹の事も晶子の亭主ぐらいにしか知られていないようだ。

次回の更新は日にち合わせで5月1日になります。
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2015/3/31

交野の桜狩『伊勢物語』八十二段  古典(伊勢、源氏など)

『伊勢物語』から、春らしい歌の段を。この交野の桜狩りの話は次の83段の惟喬親王出家小野へ隠遁の悲運の前段階として、全巻の中では後ろの方に位置して、回顧談となっている。この段では惟喬親王と業平、紀有常主従が水無瀬という現在の大阪から山崎の方へ行ったところの離宮に狩をしに出かけ、交野の渚の院のさくらを愛でて狩もしないで酒宴になり歌に興じた楽しい思い出が描かれている。

そこで業平が詠んだ歌が

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

この歌は「古今集」にも業平作と出ていて、春になると多くの人が慌ただしい心情を嘆いて引く歌となっている。「ば、まし」によって係り結びの反語となるので、その説明に轢かれることも多い。
この歌に付けた「よみびと知らず」の歌は

ちればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべし

こちらも説明はいらない、当時の現世=憂き世を表した宴席の歌である。
さて、そこを引き払ってまた新たに貰ったお酒を飲む場所を求めていくと、日暮れに「天の河」という所に着いたので、親王に御酒をすすめる。親王の求めに応じて業平が

狩りくらしたなばたつめに宿からむ天の河原にわれは来にけり

(天の川と言う名の所に来たのだから、七夕姫に宿を借りましょう。一日狩りをして日が暮れてしまった)と詠むと、親王に代って紀有常が

ひととせにひとたび来ます君まてば宿かす人もあらじとぞ思ふ

(一年に一度の逢瀬を待っているのだから、たなばたつめは宿を貸したりしないでしょう)と返した。

この主従の麗しく楽しい宴の事は、それほど年を経ていない「土佐日記」にも引かれ、あの「枕草子」にも「川は」たなばたつめに宿からむと業平が詠んだのが「をかし」とでてくるそうだ。私はどちらも読んだはずなのに記憶がないのは健忘が進んでいるのだろう。でも交野というと「伊勢」の中のあの場面あの歌ということは、すぐに浮かんで来るのが「おかしい」。
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2015/3/1

伊勢の斎宮「伊勢物語」六十九段  古典(伊勢、源氏など)

また「伊勢物語」から一段を。
この段は業平と思しき男と伊勢の斎宮の一夜の恋の物語である。当時伊勢の斎宮は未婚の内親王か女王が任命されたので、男と通ずるなどと言う話は現代なら一大スキャンダルなのだけれど、なうての「伊勢物語」淡々と描いていて当時どういう扱われ方をされたのかは分らない。

男は狩の使い(勅使として地方へ狩に行って、獲物を献上する仕事)で伊勢に出かけ、斎宮の母君からの紹介状を持って行って斎宮の歓待を受ける。
男は文を送ったりして斎宮を口説いて逢いたいと思う。(神罰も恐れずそうしたいと思うのがすごいと思うが)二日目の夜にあきらめかけた男の部屋に斎宮が女童のみ先導で忍んでくる。そして短いひと時で帰って行ったあと、男の方から文を送る訳にもいかずにいると斎宮からの文が詞書も無く歌だけで

君や来し我や行きけむおもほえず夢かうつつかねてかさめてか
(あれはいったい夢だったのでしょうか。貴女が来たのか私がいったのかも定かでありません)
といってきたので男は泣き泣き返して

かきくらす心のやみにまどひにき夢うつつとは今宵さだめよ
(ほんとかどうかは今夜もう一度お逢いして確かめましょう)
と伝えて狩に出かけた。

男だって道ならぬ恋と分かっているけれど、恋しくて早く今夜が来ればと思っていた(最後の夜なのに)国の守が宴席を設けたために逢えなくなってしまった。
御簾の中から斎宮が盃に「かち人のわたれどぬれぬえにしあれば」(徒歩で渡る人の足もぬれないほどの浅い縁であったのだから)と書いて渡したのに男が「またあふ坂の関は越えなむ」(また逢いに来ますよ)と書きつけて、泣く泣く帰ってしまった。

この斎宮は惟喬親王の妹の内親王であったと記されているのは、後世の加筆ともいわれていたが、現在では歴史学者によって証明されたと言う。私はたまたま見ていた「放送大学」の講義で聞いたので、録画もしていなかったから詳しい根拠も分らなくなってしまったのだが、斎宮はその後女児を出産しているのでこの話は本当に有った話だと言う。
惟喬親王は業平の乳兄弟で、悲運の親王であるから斎宮の母君も業平との仲を取り持つような心は有ったのかもしれない。本当に「伊勢」の時代はおおらかであったと思わせる話だ。
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