2015/1/15

芥川『伊勢物語』六段  古典(伊勢、源氏など)

「芥川」の段は伊勢の中でも特別に好きな段で、物語の中でも終わりまで筋を引く業平が藤原家の姫と恋におち、攫って逃げるが姫の兄たちにとり返される話である。
その高子と言う姫(藤原長良の娘)は入内を望まれており、いずれ皇后にもなろうと言う立場であった。業平も阿保親王の子で身分は低くはない。しかし当時の藤原の貴族は娘を入内させて皇后とし、皇子を設けて外戚となるのが風習であったから、高子は幼い時からこの御代にと育てられていた。しかも業平との年齢差は十八もあった。

高子はおっとりとした姫であった。業平が忍び込んで逢っていたのを親兄弟に知られ抜け穴を閉じられてしまったので、連れ出して背負って逃げるときも、怖がると言うのではなくおとなしく背負われている。そして芥川という川の処で雨が降ってきて、草の上に露の玉があるのを「あれはなに?」と聞く。男はそれどころでなく、大急ぎで傍らの蔵に姫を入れて表で見張っていた。
ところがそこは鬼の居る所で姫を食べてしまったので、男は泣いてもくやんでもどうしようもなかった。六段のお歌はその嘆きを

白玉か何ぞと人のとひし時つゆとこたへてきえなましものを

と詠っている。あの時「露ですよ」といって二人消えてしまったならこんな嘆きはなかったものを、と悔やんでいる様子が現代ではありえなくとも、哀切が漲って私達も胸打たれるのだ。平安初期の「伊勢」は中期の「源氏物語」より素朴で簡潔ではあるが、人間の素直な心が随所に出てくる。

この姫は鬼に食われたのではなくて、追いかけてきた藤原の兄たちに取り返されたので、じきに入内して「二条の后(きさき)」となる。業平はこれが原因で帝に罪を問われぬうちに関東に下向したのが九段以下の「東下り」である。「伊勢」には東での恋物語も、都に帰ってからの多くの恋も描かれているが、あいだ間にこの高子への思慕が垣間見え私も切なくなる。なお高子の身分が「二条の后」と定まって、その子が立太子(後の陽成天皇)してからは業平を引き上げ、大将として自分を守らせた、という歴史を知ってから、私はやっぱりとほっとしたものだ。
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2014/7/29

朝顔と桔梗  古典(伊勢、源氏など)

誕生日が来て、母は90歳になった。二年ごとの見直しで介護度が4になった。習い事などの級が上がるのとちがって、何もいい事ではない(千代田区は3以上でしてもらえることが増えるらしいが、余所の自治体では4ないと厳しいと言う話も聞くが)けれど、卒寿を迎えられたので、私はこの後は流れのままだと思っている。

夏になると一首二首と朝顔の歌を詠みたくなり、桔梗はやはり秋までとって置こうとなるのだが、実際に家のベランダでは毎年七月に桔梗が最盛期を迎える。八月には咲き終わって、切り戻した後の花が九月に咲くが、花付は少なくなる。朝顔は以前向かいのお家に朝顔市の鉢が二つ到来したので、家では播かないでその鉢の花を楽しんでいたが、家もそちらもビルの建て直しで朝顔はなくなってしまった。
学生の頃、平安時代位には「朝顔」は「桔梗」と習ったので、ずっと「あさがお」が「ききょう」で、「桔梗」が「朝顔」だったのだろう(つまり名前の取り違え)と思っていたが、今回調べてみたら、平安時代には「桔梗」の表記がほとんどなく、秋の七草にも「あさがほ」としるされているという。「源氏物語」の写真本(この頃目が悪くなって、写真に説明のついた学習研究社の「源氏物語」を愛用している)で「朝顔」の巻をみてもそれは桔梗をうたっていて、秋の風景である。ここに出てくる「朝顔斎院」は六条の御息所の娘で斎院の後、宮中に上がって中宮となった人とはいとこに当る。「秋好中宮」と呼ばれるため、私は混同していたが、別人であることを今回確認して(じきに忘れるけど)よかった。

それでは、いつごろ朝顔が朝顔になり、桔梗が、その花の名になったのかは、ちょっと簡単に調べられなくて分らないのだが、江戸時代には「朝顔市」もあり、朝顔の鉢を仕立てるのが貧乏旗本の内職であったのだから、その頃には今の呼び名になっていたのだろう。私の古語辞典には明智の桔梗紋は一説には「つつじ」のかたちとあって、戦国時代には家紋も勝手に作ったりしていたことを思うと、遡ってどのあたりでききょうは「桔梗」となり、あさがおは「朝顔」となったのか、弟にでも聞いて見なくては。
浅草のほうずき市には行ったことがあるが、入谷の朝顔市には行ったことがない。行燈仕立てにする朝顔鉢は自分で作るには意外と難しく、昔は垣根に這わせたりしたものだか、今ではそんな風流な庭のある家も少なくなってしまった。

涼やかに桔梗咲き初む文月は新暦の夏旧暦の秋  多香子

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2014/7/9

花散る里「源氏物語」  古典(伊勢、源氏など)

花散る里というのは巻名としては「源氏物語」中11巻目であるが、その中に出てくる女性の名でもある。尤も源氏の原文には女性は名が書かれてなくて、その巻の名や歌から読者によって呼び習わされたものなのだ。花散る里は(源氏の父)桐壺帝の女御の一人麗景殿の女御の妹で作中三の君と書かれている。大層やさしく何事もなるようになると静かに暮らしている人と書かれて地味な感じであるし、他の登場人物ほど知られていないだろうが、物語の終わりの方まで出てきて、しっかりものの気遣いの人として六条院の後を取り仕切っていくようになる存在感のある姿が私は好きだ。

紫式部は複数説もあるが、書写の時の付け加えはあるとしても(宇治十帖を除いて)一人の筆と思われるから、その構想と登場人物の性格付けの多彩さは天才的で、今の世の小説家は時代を取り入れるぐらいしかその枠から出ることはできないのではと思ってしまう。性格のおとなしさ、運命に逆らわない女性は「空蝉」に表わされているけれど、同じような性格でいながら人の妻にもならず実務能力者として描かれている花散る里は「夕霧の養母」という役割を振り当てられている。
名前の「花散る里」の巻では桐壺帝崩御の後心細く暮らしている女御のもとを慰めに行った源氏が、前に情を交わして離れていた三の君を想い出し付き合いが復活する。その時のお歌も

橘の香をなつかしみ時鳥花散る里をたずねてぞ訪ふ(源氏)

人目なくあれたる宿は橘のはなこそ軒のつまとなりけれ(女御)

と、源氏と女御のやりとりである。
やがて源氏が須磨に流れ、許されてのち権勢を誇るようになると、死んだ葵上の残した長男夕霧を託されて六条院の東の対に住まうようになる。そこは夏の御殿と呼ばれすなわち「花散る里」緑になったところということだろう。夕霧は源氏に似ない真面目な男として描かれ、養母を大事にしてたよりにもするが、「野分」の巻で夕霧が紫の上や玉鬘の美しさに見ほれるところがあるが、普段顔をあわせる花散る里には特段の言及はない。不美人なわけでもなく、むしろおおらかな性格を褒められているのは、夕霧にけしからぬ思いを起こさせない式部の心遣いか。その分後に柏木の死後落穂の宮と割りなくなって正妻雲居の雁が実家に返ったりしたときも「花散る里」に泣き付いたりしている。
源氏物語にはありとあらゆるエピソードとあふれる人間関係がでてくるが、子供を産まないのに立派な子を授かり、控えめながら自分の位置を確立している「花散る里」が一番幸せなのではないかと思ったりする。

夕霧の花散る里にながるれば昔の人の声のなつかし  多香子
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