2011/9/27

井伊直弼は多趣味すぎ。  おでかけ

 井伊直弼をウィキペディアで調べたら、面白いこと(個人的にだけど)が浮上してきた。(緑色の文字がおもいっきり引用)

井伊直弼は兄弟が多かった上に庶子だった。そのため養子にも行けず、父の死後は三の丸尾末町の屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。なんと32歳まで芽のでない日陰の生活をしていたのだ。

 長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らした。この頃熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していたが、風流に生きる姿から「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名された。

 チャカポン!? 
「お〜いチャカポン、ちょっとぉ!」とか呼ばれていたのか、井伊直弼? あの安政の大獄を断行した人のイメージとはかけ離れているなあ。

 部屋住みの時代に儒学、国学、曹洞宗の禅、書、絵、歌、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、茶の湯、能楽などの多数の趣味に没頭していた。特に居合では新心流から新心新流を開いた。茶の湯では「宗観」の名を持ち、石州流を経て一派を確立した。著書『茶湯一會集』巻頭には有名な「一期一会」がある[16]。他に『井伊大老茶道談』などを著している。


 そうか。「一期一会」の人だったのか。文武両道というには凄過ぎる。おまけに茶の湯では一派を確立って。いやいやそれで驚いてはいけないのだ。

能楽方面では能面作りに没頭し、能面作りに必要な道具を一式揃えていた。また、新作狂言「鬼ヶ宿」の制作や、廃曲となっていた「狸の腹鼓」の復曲(いわゆる「彦根狸」)を試みるなど、狂言作者としての才能も持っていた。大蔵流茂山家再興に力を貸し、名跡茂山千五郎は彼が名付けた。


 能面作りの道具を一通り揃えているって。新作狂言をつくったり、廃曲を復活させるなんて。それもタイトルが『狸の腹鼓』って!? 真面目なのか不真面目なのか。あまりに多趣味すぎて、それも度を越えているので理解不能なくらいだ。
 ところでその狸、ひこにゃんの友人ということで、彦根の新しいゆるキャラに加えてもらえるかも。

安政の大獄における過酷な処分は多くの人々から恨まれ、彦根藩祖である直政同様に「井伊の赤鬼」といわれた。ただし直政の場合は畏敬の念が含まれていたが、こちらは憎しみのあまりである。また、直弼を指す隠語として「赤鬼」という語を用いた場合がある。

 彦根藩の藩校を元とする高校では、『赤鬼魂』としてプラスイメージで受け継がれている。万城目学さんの新刊『偉大なるしゅららぼん』にも、赤い詰め襟が登場するが、それも『赤揃い』や『赤鬼』をふまえてのことだろう。
 あ、もしかして「しゅららぼん」って、「チャカポン」となにか関係があるのかな? 気になる。なにしろ読んでないので、そのへん、皆目わからない。

 しかし井伊直弼は、いったい開国派だったのか攘夷派だったのか、なんだかいまひとつわからない。これについてはいろんな説があるらしいし。歴史上名を残しているくらいな大きいことをしているのに、まるで伝説の人みたいだ。しかも道半ばにて、刺客に首をはねられるという、ショッキングな末路だ。レジェンド・オブ・直弼。

 もしかしたら彼の不可解さや支離滅裂さが、筒井康隆にジャズでオノマトペな『万延元年のラグビー』を書かせたのかもしれない。
 初めて読んだ時(高校生)には驚いたけど、きっと今読み返しても驚愕だろうな。驚きのあまり今でも覚えている「ふぐむが、ぐ」って、それなに?だもんね。「しゅららぼん」どころではない。
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