2015/6/30

路地、神社、かわと。  おでかけ

 昔の立派な小学校、もしくは役場のような建物っぽいと思ったら、やはり昭和初期に建てられた熊川村役場だったもの。

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 現在は歴史資料館となり、「宿場館」(若狭鯖街道資料館)と呼ばれている。こちらも前を通るだけ。 

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 国選定の重要伝統的建造物群保存地区を示す看板。

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 蔵の横手に細い路地がある。

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 まっすぐに突っ切った路地は「長屋道」。奥には町奉行手配下の足軽長屋があったため、この名前になったとか。

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 家の前には「かわと」が流れている。水のある風景は、文字通り潤いがある。

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 古い「たばこ屋」の看板が下がるお土産屋さん。店主はおばあちゃん。

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 廃屋や修繕必要なおうちが多い中、立派に改築された建物。

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 白石神社は、熊川地区の氏神様。神代の時代の神様から白髭明神、小浜藩主や山の神までが合祀されているらしい。

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 注連縄は合成繊維の高額商品。「洗えば何度でも使えます」とのこと。

 ウチの地元では注連縄どころか、毎年複雑な形態を持つ「勧請縄」まで、藁や枝物を使って12月中かかって作ってらっしゃる。全国的にも本物の藁で毎年作る事自体、珍しくなって来ているらしい。・・・と、市井の勧請縄研究者の先生がおっしゃっていた。高齢集落ではなく、あとに続く人がいるからできることなのだろう。(あと、先祖代々からの、しきたりや伝統にこだわる地域性があるからかも)

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 紫陽花のあまりの美しさに、皆、足を止める。いくつかの花色の株をまとめて植えられたのが、功を奏しているのだ。

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 紫陽花と「かわと」は、よく似合う。

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2015/6/29

まだまだ歩く。  おでかけ

飾りの瓦は、たぶん前の家のを使っているらしく、お洒落で品がある。

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 新しい家だけど、こんな竹と土の窓が!

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 上品なのにユーモラスな、私好みの意匠。なんだかおめでたい。

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 炎天下でなく、ちょうどいい具合に曇っていたので、大助かり。晴れていたら途中でバテていたかも(汗)

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 石の向きを互い違いにナナメに配した石垣が目を惹く。

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 橋を見るとなぜかグッとくる。いろんな想い出が甦る。
 テレビの時代劇では橋の上から飛び降りようとする若者に遭遇する率が高いが、子どもの頃は、仮面ライダーになぎ倒されて、かなりの高さから落ちるショッカー戦闘員を毎週みて「大変やな、戦闘員って」と感慨深く思ったものだ。職業に貴賤はないというけれど、なりたくない職業ナンバー1は「ショッカー戦闘員」だった。 

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 そのずっと後に、転職マガジンのネタにショッカー戦闘員が抜擢されることになる。きっと当時の子どもたちの脳内トラウマとして、「ショッカー戦闘員=過酷な仕事→転職したい!だろうな」という図式が、知らず知らずのうちに植え付けられていたのだろう。

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 当時の子どもたちに仮面ライダーは大人気だったが、むしろ注目されたのは、ショッカーの怪人や戦闘員なのかもしれない。

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 旧逸見勘兵衛家は、伊藤忠商事2代目社長、伊藤竹之助の生家。町指定文化財。3年かけて改築されたそうだが、内部は熊川のモデルハウスをうたっているだけあり、あっと驚く現代風なのだそうだ。土日祝日は見学が可能らしい。

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 虫籠窓のついた町家。屋根に波立つ瓦があり、独特。

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 こちらは黒い壁の虫籠窓。黒い壁もいい。

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 蔵を改造したカフェ。お店の名前は「くまのこ」。こちらにも波立つ瓦がある。改築された屋根に入れる、新しい火事よけなのかも。

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2015/6/28

街道をゆく!  おでかけ

 茅葺き屋根だったこともあり火災の多い集落だったので、ことさら火事には神経を遣っていたにちがいない。

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 ガイドのおじさんは、火災のために歴史的な建物がすべて失われている事を嘆いておられた。翻れば、千年前の建物が残っているって、それだけで奇跡的なことだと気づく。
 
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 歴史的町並みよりはむしろ、トタンの錆が織りなすストライプがキッチュで、目を惹く。

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 古いハシゴと屋根瓦、びっしりと蔦に覆われた上部のバランスは、もはや芸術的。

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 道と道沿いの家と山が三位一体となって、なんともいえない風情だ。

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 トタンで覆われた屋根の下には、藁葺き屋根があるらしい(@おじさん談)

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 突如ピラミッドのような大岩があったり、

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 二階の壁のデザインが、イギリスの酒場みたいなお家があったり、

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 曇りガラスをふんだんに使った、小粋な家があったりする。

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 入口のない鳥小屋のような出っ張りがあったり、火事除けのまじないで「水」の丸瓦が乗っていたりする。

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 熊川宿のマンホールを採取。紫陽花デザインだった。
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2015/6/27

県境を越えて  おでかけ

 興聖寺を後にして、朽木のレジャー施設「グリーンパーク想い出の森」内のレストランで、イワナの唐揚げがついたランチ。その後は、お土産を物色する。美味しくて有名な「鯖寿司」は、さすがの大人気。

 流行ものや人気商品を意地でも外してしまうことがあるという、子どもの頃からの私の天の邪鬼はここでも発揮され、真空パックのスモークした鯖と鯖のへしこ(スライス済み)をお買い上げ。これは、またここに来ることがあれば、絶対リピートしたいほど美味しかった。朽木の加工した鯖は、どんなかたちであれ美味しい事が判明する。さすがは鯖街道の要所。

 実はこの辺でこの日の体力をけっこう消費していたので、後半はいつもの半分くらいの元気さでしのいだ。前日に前倒しの家事をしたりして仕事がたてこみ、睡眠時間が短かったためだ。
 しかし、見知らぬあれこれを観る好奇心がエネルギーとなったのだろう。好奇心、あなどるなかれ。

 再びバスに乗り、県境を越えて福井県に入る。

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 広大な駐車場でバスを降りる。大きな山が迎えてくれる。

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 最後の観光場所「熊川宿」。「伝統的建造物群保存地区」である。宿場町好きの私としては、楽しみにしていた場所でもある。

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 若狭から京都へ鯖を運ぶ道、通称「鯖街道」はいくつかのルートがあるが、そのなかで一番利用されたのが、小浜から熊川を経由して滋賀県の朽木を通り、京都の出町柳に至る「若狭街道」だ。

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 黄色いウインドブレイカーのボランティアガイドのおじさんが、「今朝から歯の具合が悪くて、しゃべりにくいんですわー」といいながらも、途切れる事無く案内してくださった。(具合が悪くなかったら、どんだけしゃべらはるんやろ?と、こっそり思った)

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 熊川宿は若狭と近江の国境にあるので、番所(関所)が設けられていた。「世界遺産」はムリけれど、「日本遺産」には登録されました、と自慢げなガイドのおじさん。

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 江戸時代の「番所」が再現されていた。おじさんは、人形一体の値段、捕り物の道具の値段など、詳細に「番所」再現の費用を教えてくださったが、感心するフリはすれど、右から左(汗)

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 捕り物の道具がひとつ、盗難にあったとか。

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 盗られる方は大損害だが、盗る方の目的って? 時代劇マニアか? 所帯持ちなら「こんなジャマになるもの!」って、奥さんに怒られるぞ。

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 というふうに、この道を終点まで歩く事になるのだ。
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2015/6/26

足利庭園  神社仏閣/教会

 興聖寺の境内には、「旧秀隣寺庭園」がある。「興聖寺庭園」ではなくて、「秀隣寺」なのは、なぜに?

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 15世紀の頃、現在興聖寺があるこの場所には朽木氏の居館があった。ところが享禄元年(1528)、室町幕府12代将軍足利義晴が京都の兵乱を避け、朽木の地に身を寄せてきたため、朽木氏の居館は将軍御所「岩神館」となる。
(岩神とは、当時の地名)

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 その岩神館の館内に、京都銀閣寺の庭園を模した池泉観賞式庭園が作庭された。鑑賞のためだけでなく、将軍の公的な権威を示すための儀礼の場に不可欠な舞台装置として造られた庭ともいわれている。

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 時代は移り江戸時代のはじめ岩神館の跡地に、朽木宣綱が正室の菩提を弔うために建立した寺院が「秀隣寺」。そうしてこの庭は、「秀隣寺の庭園」になった。さらに江戸時代中期、安曇川対岸の上柏村にあった「興聖寺」が、「秀隣寺」の横に移ってきた。

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 しかしその後、両寺は幾度かの火災に遭い、秀隣寺は朽木の野尻に移りました。現在、庭園は興聖寺の境内にあるが、名前は「旧秀隣寺庭園」として残っている。

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「旧秀隣寺庭園」は、別名「足利庭園」とも呼ばれ、こちらの方がわかりやすい。

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 この庭園は、室町幕府の政治的な有力者であり、かつ風流人としても名高い管領の細川高国が作庭したとされている。彼が作庭したとされる三重県の「名勝北畠氏館跡庭園」と類似しているそう。越前一乗谷の「朝倉氏庭園」や「近江京極氏庭園」と並ぶ、数少ない中世の貴重な名勝庭園である。

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 庭園は、安曇川が形成した段丘の縁にあり、安曇川の清流、そしてその背後に横たわる蛇谷ヶ峰を借景としている。池泉鑑賞式の庭園で、左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水は、池に注いでいる。
 曲水で造り上げた池泉には、石組みの亀島、鶴島を浮かべ、中央付近には見事な自然石の石橋が架かっている。随所に豪快な石組を配する、全国屈指の武家の庭だ。

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 近年では昭和の高名な作庭家、重森三玲氏が、この庭園に惚れ込み、「飽きがこない」と年に1度は見えて、お庭に佇まれていたとか。

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 むろん白洲正子さんも来られていて、近所の子どもの遊び場になっているのがいい、とおっしゃっていたとかいなかったとか。

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2015/6/25

興聖寺  神社仏閣/教会

山の中をバス移動。山の中を縫うように走り、谷川を見下ろし、それでも時たま「鯖寿司」の看板を見る。日常的な風景とあまりにかけ離れているので、もはやとんでもなく遠い場所に来たような気になる。

 「足利庭園」「興聖寺」の大きな看板のある駐車場でバスを降り、お寺に続く坂道をのぼる。やはりこの辺はひんやりと涼しく夏も遅く来るらしいので、咲き始めたばかりの初々しい紫陽花が、迎えてくれる。

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美しく手入れの行き届いた境内は、まさに緑滴る風情。

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 青紅葉が、プロペラのような赤い実を付けていた。

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  嘉禎3年(1237年)、近江守護佐々木信綱が、宋から帰洛された曹洞宗開祖・道元禅師に京都で会い、承久の乱で戦死した一族の供養をお願いした。
 禅師は付近の山野の風景が伏見深草の興聖寺に似ていると喜ばれ、寺の創建を奨められ、興聖寺とするよう勧められた。

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 かつては広大な境内を持っていたので、足利将軍が危機に陥るたび、何度も興聖寺に身を寄せていたらしい。そのため「朽木幕府」とも呼ばれたとか。将軍の田舎暮らしの無聊を慰めるため、りっぱな庭園もつくってさしあげた。それが今に残る「旧秀隣寺庭園」こと「足利庭園」である。

 他にも織田信長の窮地を助けたり、文武両道に秀でた戦国大名細川幽斎の結婚の世話をしたりと歴史に関与されている。現在も興聖寺と細川家は深い親交があると、奥様より話をきく。

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 「関西花の寺」(平成5年開創)25ヵ所霊場第14番札所。霊場の花として、境内「旧秀隣寺庭園」に470年以上の歴史をもつ藪椿(老椿)がある。

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 興聖寺本堂内で、上品ながら気さくな奥様のお話で、お寺の来歴などを知る。

 まず正面のご本尊、釈迦如来坐像は、国指定の重要文化財。平安時代の作。後一条天皇の皇子が幼くして亡くなり、天皇の叔父である藤原頼通が供養のために彫らせた三体の仏のうちの一体。作者名は不明だが、定朝作と伝わっている。

 こちらの仏様が正面間近で見られるよう、金襴のかかった高台に上がって、仏様と向かい合ってお参りください、と奥様が勧めてくださった。ありがたいことである。こんな至近距離でお参りできるお寺は、まずない。「花の寺」でのおもてなしはどこも親切で、ホスピタリティ豊かというウワサは本当らしい。

 私は仏様の前で正座できないので遠慮させていただいたが、下からじっくりとみせていただいた。仏像の前には、なぜか神社にあるような丸い鏡が置かれていた。白洲正子さん好みの、神仏習合の色濃い名残かもしれない。

 釈迦如来の左手には「縛り不動明王坐像」があった。
 そもそもは、北条高時の命で朽木時経が河内千早城を攻めた際に、楠正成の念持仏である不動明王が兵火にあわんとするを朽木へ持ち帰り、現在まで祀られている。戦中なので、むろん黙って持って来てしまったのだけど、すでに750年間、とくに返却要請もなくこちらにいらっしゃるので、もはや時効かと・・・と、奥様が笑いをとっていた。
 ちなみに「縛り」の渾名がつくのは、ここに入って来た泥棒を金縛りにしたので、「縛り不動」といわれているとか。戦火より救われたお不動様の恩返しかも。

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 本堂でも外でもお寺の飼い猫が、みなさんに身体を摺り寄せて愛嬌を振りまいていた。いかにも愛情を一身にうけて育ったような、おおらかな猫だった。

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 さて、次は庭園へ。
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2015/6/24

葛川かや葺の家  おでかけ

 少しだけバス移動して、次の目的地に到着。

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 茅葺きの家もいいけれど、周りの風景やアプローチも清々しく、よく手入れがされている。

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 青紅葉もきれい。

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 「葛川かや葺の家」は、茅葺きの民家を移築して、この地域で用いられていた生活用具が展示されている。

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 茅葺きもしっかり見ておこう。

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 軒も。

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 懐かしい雨戸のついた濡れ縁も。

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玄関口には所狭しと山仕事、畑仕事の道具がびっしりと。

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 上がり込んだ部屋の入口の上には、錫杖を収納する場所が確保されている。

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 次の間は囲炉裏があり、現役なれど煙がもうもうと(汗)

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 「おくどさん」も煙に包まれて(汗)

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 囲炉裏の上はこんなかんじ。高級品・煤竹が燻されている。

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 上品な庭園もあります。

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 屋根越しに外を見れば、山と樹々。川を挟んだ集落は、おとぎの国のよう。

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 人間って自然のなかでは本当にちっぽけな存在なんだということを、ポジティブに受け入れられる風景。

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 なつかしいものも見られて、しばし子ども時代の心にタイムスリップできた。さらば茅葺きの家さん。どうぞお達者で。
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2015/6/23

明王院本堂にて説明をきく。  神社仏閣/教会

 中世から近世にかけて、葛川(=明王院)参籠を行った者は参籠札という卒塔婆形の木札を奉納することが習わしで、元久元年(1204年)銘のものを最古として、約500枚の参籠札が残されている。それらの中には足利義満や足利義尚、日野富子のような歴史上の著名人のものも含まれ、葛川参籠が広い階層によって行われたことがわかる。

 現在、鎌倉時代から江戸時代に至る501枚の参籠札が残っている。これらは重要文化財だ。このうち最古のものは元久元年(1204)の銘がある「権大僧都成円」ら7名の奉納したもので、高さ391cmの巨大なものであるそうだ。

(以上、ウィキペディアより引用)

 現在もひきつづき、回峰行者の参籠札がおさめられているので、平成の日付↓

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 本堂には中央に千手観音、左(向かって右)に毘沙門天、右(向かって左)に不動明王を安置する。でもこれは前立てでいわゆるレプリカ。本物の仏像は秘仏なので、厨子の中。

 霊木の桂の木で相応和尚は3体の仏像を作り、一つは近江八幡の伊崎寺、もうひとつは比叡山に安置されているとか。

 床をみればボコボコしている。これは「太鼓まわし」のとき、太鼓の皮を留めている丸い金具が当たった衝撃でへこんだものだとか。

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 7月18日の夜10時に、ここで行われる一大行事が「太鼓まわし」と呼ばれるもの。祭に使うような大きな太鼓をナナメに支えた上に、行者さんが乗り、そこから飛び降りるというもの。
 ただでさえアブナイのに、灯りのない暗闇でのダイブなので、行の一つとはいえ相当カラダを張った行事だ。いやいや、もしかしたら死ぬかもしれないという回峰行をしようというくらいだから、ある意味、命がけの意志を試されているのか?
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 説明をしてくださった氏子の方は、「(なにしろお酒も入ってるし)昔は流血沙汰のケンカもあって・・・いまはすっかりおとなしくなってしまい、たよりないくらい」みたいなことをおっしゃっていた。

 ところで、回峰行を達成して阿闍梨になったお坊さんは、僧侶としての位が高いかというと、そうではないらしい。
 氏子の方いはく「お坊さんの世界は、年功序列です」。

 そういえば、ブッダが亡くなる前に弟子への遺言として、「先に僧になった年長者を敬いなさい」と言ったという話を最近知ったばかりだ。実力主義になると下克上がおこり、まるで戦国時代のように、組織は必ず紛糾し解体してしまうから、という理由によるらしい。ブッダの遺言が仏教界で生き続けていることも凄いかも。

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 ↑氏子さんのおうちの前には、三の滝の水が引かれ、金魚や鯉が泳いでいた。

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 ところで、相応和尚を三の滝まで案内した浄喜・浄満の末裔とされる葛野(くずの)常喜家・葛野常満家は、現在も信徒総代として門前の集落に存在している。

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 四季折々のお料理が楽しめるらしい「比良山荘」。

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 山菜や鮎料理、マツタケや熊鍋など春夏秋冬の味のコンプリートを目指すお客さんもいるらしい。京都からタクシーでみえるというツワモノたちの、夢のアジトだったりもする。

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 旬のものだし、水がきれいだから、お料理も美味しいのだろうなあ。
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2015/6/22

明王院へ  神社仏閣/教会

 赤い橋を渡り、

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緑に埋もれながら、穏やかにまっすぐな道を進む。いにしえからの聖地っぽい厳かで清らな空気感にドキドキする。

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 魔除けに赤く塗られたお堂を横に見ながら、石段をあがる。

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 屋根の葺き方が珍しい。アルマジロの甲羅のよう。

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 石段をのぼりきれば、山に守られた明王院。

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 小振りながら、古色蒼然の威厳が連綿と続いているユニークさがある。

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 解体修理して判明した屋根は、厚みのある木板を重ねるもともとの「とち葺き」に復元された。

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 正面の蛙股には、極彩色の唐獅子が牡丹の花とともに嵌め込まれている。

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 明王院は859年、円仁和尚の師弟である相応和尚(そうおうかしょう)が創建する。

 相応は葛川の地主神である思古淵神(志古淵神)から修行の場として当地を与えられ、地主神の眷属である浄喜・浄満(常喜・常満とも)という2人の童子の導きで比良山中の三の滝に至り、7日間飲食を断つ修行を行った。厳しい修行の末に生身の不動明王を感得し抱きついたところ桂の古木だったので、その木から千手観音像を造り安置したのが始まりといわれている。

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 比叡山「無動寺」の奥の院、天台宗回峰行者の修験道場として発展してきた。特に室町時代には、足利義満や日野富子などが参籠し、歴代将軍の庇護が厚かった。以来、天台宗回峰行者の参籠する霊場として現在に至る。本尊は千手観世音菩薩。

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2015/6/21

地主神社  神社仏閣/教会

 シンプルだからこそカッコいい鳥居。いかにも結界の入口といった風情だ。地主神社は、次に立ち寄る「明王院」の鎮守にあたる。

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 祭神は国常立命(くにとこたちのみこと)だが、この地の地主神である思古淵明神(しこぶちみょうじん)も祀られている。思古淵は安曇川(あどがわ)流域に多く祀られる神で、この地域の開拓の祖神であり水の神として、崇められている。この地に多く暮らしていた「筏師」の守護神でもあった。

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 ひっそりとした境内には、拝殿・弊殿(へいでん)・本殿の三棟が一直線に並んでいる。

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 弊殿・本殿は室町時代の建築で重要文化財。

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 特に本殿は春日造と呼ばれる左右が反り上がるもので、大津では珍しいものらしい。とても遠く感じるが、ここもまた「大津市」で最北端なのだ。

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 蟇股(かえるまた)といわれる部分には、牡丹・唐草・笹竜胆(ささりんどう)・蓮など12種類ものデザインの彫刻がなされ、しかも左右対象という凝りよう。

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 これは蓮らしい↑

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 屋根の見事な反り上がりが「春日造り」。

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 穴太積みらしき石垣と並んで、境内社が佇む。

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 手水舎の横に、宝篋印塔もあった。

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 巨木がそびえ立ち、空気が凛と澄み、ひんやりとした空気が厳粛な気分にさせる。
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 いかにも冷たそうな水が勢いよく流れ落ち、


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 小さな激しい滝になっていた。この川は明王滝川というらしい。なんだか霊験あらたかそうな水だ。

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 結界となる三宝橋がかかる。赤く塗られた欄干が緑に映える。
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2015/6/20

比良と花折峠  神社仏閣/教会

 傾斜する道に棚田を見つつ、山の中へ。ヤマボウシや栗の白い花が咲き、濃い緑に清らかに映える。大きな石がごろごろする谷川を、行儀よく並ぶ杉のスキマから見る。何度もトンネルをくぐる。白いトンネルのライトがぼんやりと壁面を照らし、そのちょっと不気味な明度にドキドキする。

 途中にあった花折峠は、旧鯖街道(若狭街道)のなかで随一の難所といわれた峠だ。また、安曇川と和邇川の分水嶺となっている。鯖街道沿線にある葛川明王院への参拝者(回峰行者)が、仏前へ供えるシキミを峠付近で摘んだことが名称の由来となったらしいが、別に白洲正子さんの文章には、行者たちがシキミの花を「散華」として安曇川に流した、という部分もあるらしい。

 回峰行というのは、平安初期の相応和尚が開いた修験道の一派で、比叡山から比良山へかけて「回峰」することにより、身心を鍛錬する。・・・毎年七月半ばには、叡山の奥の院ともいうべき「葛川明王院」に籠もって、きびしい行を行う。そこへの途中、花折峠で樒を採り、叡山を遥拝するのがしきたりになっている。「この世に別れを告げる」と彼らはいっているが、花折峠から先は断食と無言の行に入るので、その言葉どおり命がけの荒行である。

 都の西北に当る出雲が黄泉(よみ)の国にたとえられたように、近江の西北にそびえる比良山は、黄泉平坂(よもつひらさか)を意味したのではなかろうか。実際にもここから先は丹波高原で、人も通らぬ別世界であった。

 相応和尚の後継者たちが、比良山に籠るのは、平安時代以来、いや神代依頼、そこに伝わって来た起死回生の思想による。・・・また特に花折峠で「この世に別れを告げる」のは、その度毎に死んで生れ変ることを体験するためだ。

比良山について、私は陰気なことばかり記したが、大切なことは、この山が、新しい生命の泉であることだ。その裏側にある葛川明王院は、比良山をへだてて、白鬚神社と相対しており、古代人のこういう感覚はきわめて正確なのである。

(以上すべて白洲正子『近江山河抄』「比良の暮雪」より引用)


 いつ果てるかもわからないほど長い上り坂を走り、ついに地主神社に到着した。バスを降りて見回せば、まるで別世界に来たかのような清冽な空気と、ひんやりした樹々の世界。見慣れた滋賀県の風景とは、一線を画すような気配だった。

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 真夏に来ても涼しいだろうと思わせる心地よさ。ちょっと信州に近い感じ。

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2015/6/19

今年の文学散歩もディープ企画。  おでかけ

 15日の夏至も通り過ぎ、6月の3週目は近江八幡市にある各読書会メンバーの有志が集う、白洲正子シリーズ文学散歩の旅行があった。ちょうど「劇団☆新感線」の舞台をみてから1週間後の18日。前日まで仕事が混んでいて寝不足気味だけど、バタバタと元気に出発。20余名が、集合場所でマイクロバスに乗り込む。

 生憎の小雨が降っていた。行き先は、湖西の朽木の明王院と茅葺きの里、興聖寺と県境から少し入った福井県にある熊川宿。

 熊川宿は若狭と京都を結ぶ旧鯖街道の宿場だ。国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。ちなみに鯖街道の終着点は、京都の出町柳。

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 つまり今回は、旧鯖街道の途中の要所を巡る旅であり、また白洲さんの著書「隠れ里」や「近江山河抄」を繙(ひもと)けば、神仏の渾然一体となった場所(山岳信仰と仏教の混在する千日回峰行にゆかりの寺)、またはあの世とこの世、俗界と聖域を行きつ戻りつする場所(千日回峰行の入口)を行くらしい。

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 湖西は今津や高島あたりなら、たまに行く事もあるが、山に分け入る朽木までは気になりつつもまだ行った事が無かった。半世紀滋賀県で暮らしていても、初めて足を踏み入れる土地である。もっとも朽木に限らず、そんな場所は滋賀県には山ほどあるはず。

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 なのに東京の白洲正子さんが、地元の人でさえ知らない場所を訪ね歩いたなんて。それも50年程前の、荒れ果てていたかもしれない放置された場所に。おそるべし、白洲さんの嗅覚と直感!

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 しかし確かに近江には、「なにかある・・・」と思わせる不思議な気配は漂っている(いた)もんなあ。それは子どもの私ですら色濃く感じたものだったから。歴史の、いまだ封印されているミステリーみたいな気配が。

 今年の文学散歩も、かなりディープな旅になりそうだ。  
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2015/6/18

初!劇団☆新感線を観る。  映画/ドラマ

 娘のKちゃんが、人気劇団「大人計画」の舞台や、爆笑ミュージカル『モンティ・パイソンのSPAMALOT』などを観に行ってるのがうらやましくて、うらやましくて。

 もし昼間公演のある舞台があったら、チケットとって!と5月にお願いしたら、「劇団☆新感線」のチケットをキープしてくれた。「劇団☆新感線35周年 オールスターチャンピオンまつり」と銘打たれた『五右衛門vs轟天』のチケットだ。

 田舎育ちの田舎暮らしだから、いままで舞台を観る機会がとても少なかった。だから舞台へのハングリー感はハンパない(笑) 1ヶ月以上前から、ワクワクドキドキ。楽しみでたのしみで。これはある意味、幸せな事。

 でも「オールスターチャンピオンまつり」と銘打たれているのは、ダテじゃない。「劇団☆新感線」のシリーズ化した舞台を混成し、お馴染みのキャラクターたちが勢揃いした「ネタもの」と言われる舞台なので、はたして初見の私がついていけるのか、笑いの下敷きになるものを理解できるのか、という部分で一抹の不安があったのも確か。爆笑の渦に乗り遅れるほど、クヤシく悲しいことはない。

 6月11日当日、浮き浮きと大阪駅で大阪環状線外回りに乗り換え、法螺貝の発車音が流れる「大阪城公園駅」に降り立った。

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 改札を出たら、「これでもかっ!」と駅内の四方に意匠が。おそるべき大阪のホスピタリティ。

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 なんと司馬遼太郎さんの筆跡で、開業祝いの詩を写した陶板が!

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 大阪城ホールを横に見て橋を渡る。大阪は水の都を実感。橋の上からラップング電車を眺める。

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 次いで、劇場「シアターBRAVA」向かいの「ホテルニューオオタニ大阪」内の蕎麦屋さんで蕎麦定食を注文し腹ごしらえ。(普通の食堂やレストランが近くに見当たらず、選択肢がなかった・汗)
 笑うとお腹がすくはず。ここはしっかり食べておかないと。始まる前から、もう笑う気満々なのだ。お蕎麦も紫蘇ゴハンも美味しかったので、よしとする。

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 少し早めに劇場に入り、事前に予習をしておこうと、100ページにわたるパンフレットを購入。2階の最前列というグッドな席に座り、主なキャラクターのアウトラインをインプットする。舞台が見渡せるいい席だ。

 幕が上がり・・・いや、幕なんてない! 最初から開いていた。ガンガンと音楽が鳴り響き(そうなのだ、ロックミュージカルだ!)、ねぶた祭のようなハリボテの山車?が動き、お祭感が盛り上がる。いきなり世界征服を企む悪の組織が出て来て、各キャラクターの紹介が疾走する。いきなり5人も覚えられんわ〜! まあ全員濃すぎるキャラだけど〜!(たぶん知ってる人には、おなじみのキャラなのだろう)

 舞台上だけでなく、舞台のバックに映像や文章までがでてくるので、目が忙しい忙しい! でもその映像が面白すぎるので、見逃すわけにはいかないのだ。 

 そして息をもつかせぬ面白さ!! なあんだ「わからなかったら」「笑えなかったら」なんて、全然杞憂だった。それどころかR50のスタッフが多いせいか、ネタがR50にビンゴ! 「ブルセラショップ」って、うちの娘知らないし(いや、知らなくていいっ・笑) いつしか前のめりになって、すぐさま没頭! 疾走する笑い、ぎっしりすぎるネタ・オン・ネタ、続出する濃過ぎるキャラクターたちが、踊る、歌う、走る。チャンバラがあり、階段を駆け上がり(人形が)落下する。サービス精神の権化のような内容。(ただし「ためになる」「感動的な」「いい話」は、ほぼない!ひたすら役者の皆さんは、「笑いの神」に身を奉じていた)

 休憩をはさんで3時間20分もあるのに、飽きる瞬間がまったくないのが素晴らしい。濃密な科白と、全身全霊でバカをしまくるキャスト。きわめて高度な演技力と全力疾走の体力勝負で、とことんバカなことをやりまくる人たち。

 そんな舞台を見て笑いまくると、しっかり肩のチカラが抜ける。そして「ああ人間って本来はこんなに元気なんだ!」とびっくりする。舞台を見て2日間は、ホントにしっかり元気だった。笑うとカラダにいいっていうのを、ものすごく実感した、初体験テイストの舞台。また観に行きたい!! 

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2015/6/17

奈良にはおしめりがよく似合う。  神社仏閣/教会

しっかりと鑑真像と東山魁夷画伯の障壁画を見て、出口にある特設土産物売り場・・・いや特別公開記念品コーナーを物色する。もちろん私のことだから、探すのはウィットのある「おもしろ」なのだが、当然、ほぼ真面目なグッズばかりだ。

 ここでは「販売員がお坊さん」だった。特別公開の寺院や比叡山では、頭を丸めた方が土産物(「授与品」というべきか?)販売を担当されているのだが、これって、なんだかミスマッチな気分になる。

 きっとキリストが聖なる神殿で商売する商人たちをムチをもって追い出した、という聖書の箇所が頭にこびりついているからだろうな。

 でも、ブックカバーをふと買ってみた。

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 金堂にいらした千手観音さまだ。

 山側にある御影堂を出て下りがちの道をゆくと、なんとも私好みの土塀があった。

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 「きゃ〜〜〜♡」

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 瓦が均等に土壁に混ぜられて、補強されているのだろうが、

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 手作り感溢れていて、「耐震構造についてはノーコメント」といった表情だ。

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 人でごったがえしている売店へ。かなり多種多様のグッズがあるにも関わらず、そうそう琴線に触れるものはなかった。

 売店の横手にある蓮池で撮影会。

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 なぜか蓮については、花より蕾のほうがきれい。観音さまが蕾を持っている刷り込みのせいか。

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 お庭の苔も、雨に濡れてひときわ美しい。写真ではとても捉えられなかった。

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 雨だからこそ、の美しい色あい。

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 うれしくて発光しているのでは、とすら見える。

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 いや、苔だけでなく、樹々もうれしそうだ。

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 唐招提寺を出た向かいには、ちょっと鄙びた土産物屋さんが、いくつかあった。そのうちのひとつの店に、ハニワ(最近作ったらしい手づくり品)がたくさん売られていたが、いかにも奈良土産といったものに混じって、網にはいったちいさな人形が売られていた。

 それが私たちが子どもの頃出回っていた、横にすると目を閉じる金髪や茶髪の巻き毛のお人形で、懐かしさのあまり人形の前から動けなくなる(笑)しかも、狙ったように2体のみ。

 れんくみさんは「しっかり目に焼き付けとこ!!」「それとも、お揃いで買いますか?(笑)」。ううう、揺れる心!! 

「めいどいん・じゃぱんかな・・・?」と調べたり。デッドストックなのか、それとも「めいどいん・ちゃいな」のばっちもん!?なのかも気になるところ(笑) 40年以上の時を越えて、甦る人形愛だ(笑)

 さんざん人形の周りをぐるぐるし、何度も手に取ってみたものの、「いや、買わないからこそ思い出になるのかも」と、スルーした私たち。ちなみに価格はひとつ700円(買えよ〜!!!というツッコミが聴こえそうだ)。福助人形のように手をついてお辞儀をする大きなハニワに見送られて、さようなら〜。

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 途中の大きなお土産物店舗で、お買い物を楽しんだ。柿のスライスを干したもの(干し柿よりレアな感じ。れんくみさんおすすめの逸品)と柿の葉寿司が、今回のお土産でした。

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 それにしても雨の奈良は、いいお天気の奈良より、ずっとずっと「奈良の空気」を感じられた。奈良には湿り気のある空気がよく似合うのだ。

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2015/6/16

御影堂  神社仏閣/教会

 さて、いよいよ今回のメインイベントである特別公開の御影堂へ。

 鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められている。

「特別」なだけあって別料金。でもワクワクしながら列につく。

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 もちろん写真撮影も禁止。

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 鑑真和上坐像は、むろん国宝。奈良時代に脱活乾漆(だっかつかんしつ)という技法で作られた日本最古の肖像彫刻。天平時代を代表する逸品。
鑑真和上の不屈の精神まで感じさせる傑作で、今も鮮やかな彩色が残っている。

斬新な東山魁夷画伯の描く襖絵の、「東山ブルー」の海に山に囲まれ、盲目の鑑真座像が静謐に佇む。それをじっくりゆっくりと、遠くから近くから、何度も往復して拝見した。

ドラマチックだ。アリスの「昴」が、そらみみで聴こえてきそうだ。

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 東山魁夷画伯が奉納された障壁画は、10年を超える歳月をかけ、鑑真和上に捧げた大作。

 日本の風土をテーマとして、色鮮やかに描かれた「山雲(さんうん)」「濤声(とうせい)」と、墨一色で描かれた和上の故郷中国の壮大な風景「揚州薫風(ようしゅうくんぷう)」「黄山暁雲(こうざんぎょううん)」「桂林月宵(けいりんげっしょう)」のほか、坐像を収めた厨子の扉絵「瑞光(ずいこう)」も。

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 これでまたひとつ、長年の念願をかなえることができた。
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