2015/10/11

お宝蔵でレクチャー  神社仏閣/教会

 雑木林の中の石畳を歩いて行く。この先に光悦寺がある。

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 江戸初期の文化人・本阿弥光悦が1615年(元和1)徳川家康から与えられたこの地に草庵を結び、法華題目堂を建てたのが起こり。光悦の死後、寺(日蓮宗)となった。

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 まずはお宝が収められた収蔵庫へ行き、ご住職から説明していただく。このご住職の話がまた、わかりやすい上に面白い!

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 でもお宝の前に、光悦自身についてのレクチャーがあった。

 安土・桃山時代-江戸時代の芸術家・本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ・1558-1637)は、刀剣の鑑定、磨砺(とぎ)、浄拭、工芸を家職とした京の上層町衆である本阿弥家に生まれた。京屋敷は現在の実相院町(上京区)で、当時の都の中心地であり御所にも近く、地理的にも光悦に与えた影響は大きい。

 彼の屋敷の近くには名水の湧き水があり、茶の湯の表千家・裏千家や薮内家も屋敷の近くにあった。10才のとき、信長がやってきて、15才の頃、室町時代が終わった。24才のときに近くにあった本能寺で謀反がおこり、聚楽第や二条城も近い。彼は当時の栄枯盛衰を間近にみていたのだ。

 刀剣が家職だったことは、光悦の多岐にわたる工芸への興味につながっている。刀剣は鞘(さや)や鍔(つば)など刀身以外の製作工程に、木工、金工、漆工、皮細工、蒔絵、染織、螺鈿(貝細工)など、様々な工芸技術が注ぎ込まれており、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいったという。

 その後、父が分家となり家業から自由になった光悦は、身につけた工芸知識を元に、好きで勉強していた和歌や書の教養を反映した芸術作品を創造するようになった。

 というような環境にもあり、光悦は書画、蒔絵、漆芸、作陶、茶の湯に秀で、古田織部、織田有楽斎につき、千宗旦と交わった。琳派の祖は、織部の影響もあるんだ。なるほどね。私の大好きな尾形乾山も、どこか織部を感じるものがあるもんな。

 1615年、徳川家康より鷹ヶ峯の地を与えられ、光悦は、本阿弥一族、工匠(蒔絵師、紙屋、漆職人)、豪商(なんとパトロンつき!)らとともに移り住み、光悦村(芸術村)をつくる。当時の街道筋は、「辻斬追いはぎをもする所あるべし」とされる物騒な地だった(『本阿弥行状記』)が、光悦はそこで草庵を結び、法華題目堂を建てる。位牌堂(位牌所/現在の境内)では、本阿弥家の先祖供養が行われた。

  光悦の鷹ヶ峰拝領・移住については諸説ある。
 1615年、大坂夏の陣後、豊臣方に内通したという罪状により茶の湯の師・古田織部(1544-1615)は自害させられた。織部とその子らも切腹させられている。光悦は千利休を批判したが、師は織部だった。織部に連座し、光悦は家康により「洛中所払い」されたとの見方もある。

 また、街道警護のために光悦らを住まわせ、西国大名、旧豊臣側の動静を探らせたともいう。光悦は京都所司代・板倉勝重と親交があり、その墓が境内にある。

 この日の見学では前者をとられており、そんな山奥の物騒な地に引っ越しても運命を前向きに捉える光悦は、地所の広さに目を向けて、「芸術村」という大掛かりなプロジェクトをプロデュースしたのだった。

 光悦の活躍は多岐にわたり、角倉了以の子・素庵(1571-1632)に協力し、出版した「嵯峨本(典籍や謡本を雲母摺りした料紙に書を印刷)」、久世舞などの古活字本の刊行、板下を光悦が書いた『伊勢物語』(1608)の出版、光悦が見いだした俵屋宗達の下絵に揮毫した和歌巻、色紙、彫刻、茶碗なども手がけた。桃山時代のマルチ・アーティストであり、プロデューサーでもあったのだ。

 ことに書に秀でており、「寛永の三筆」(ほかに近衛信尹、松花堂昭乗)のひとり。熱心な法華信者だった。信尹、昭乗、烏丸光広、俵屋宗達、小堀遠州、角倉素庵、千宗旦らとも親交があった。

 老いにより手が震えて書が書けなくなったときには、鷹ヶ峯でも楽茶碗を焼いた。ろくろをつかわない手びねりである。素人の陶芸だったが、手びねりの味わいに大人気だったようだ。彼はすでに名を馳せていたので、光悦ブランドとして、もてはやされた。ちなみに茶碗に自分の名前を入れるようになったのは、光悦が最初である。陶芸を芸術として確立したひとでもある。

 彼の墓は光悦寺内にある。
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