2015/11/30

宝積寺は3回目。  神社仏閣/教会

 お弁当のあと自由に室内を見学し、スタッフの方のコメントを聴いたり、写真を撮ったり、書籍を買ったりして、それでもなお名残惜しく聴竹居を後にした。この建物に魂を奪われた人たちは、傘やカバンを忘れるといううっかりをしでかす。うっとりでうっかり。

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 次なる目的地は、急斜面を登る宝積寺だ。これで3回目だから覚悟はしていたものの、やはりこの坂道は辛い。それでもまだこのときには、雨が降っていなかったので不幸中の幸い。

 今回、年齢層は高くないけれど、年齢層の高い歴史ウォークのときより、みなさん辛そうである。前は置いてきぼりを食らいそうな私とれんくみさんだったのに、今回はどっこいどっこい。歴史ウォークの方は年齢に関わりなく、やはり歩き慣れていらっしゃるのかもしれない。

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 そんな苦労をした甲斐があったのは、仁王門の門前でこんな風景をみたとき。

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 宝積寺については、1回目の歴史探訪ウォークのときにさんざん書いたし2回目には1300年の歴史がある古式ゆかしい「鬼くすべ」の伝統行事を見学したので、今回は、ごくあっさりと。ちなみに「鬼くすべ」は西から入って来る疫病や災いを防ぐ為の行事だ。(上のリンクで詳しく書いています)

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 宝積寺は寺伝では724年、聖武天皇の勅命を受けたに行基が建てたと伝えられる真言宗のお寺。 

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 (こちらでは↑ 大黒天がお祀りされている)

 聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから通称「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺として商売繁盛のお寺として知られている。

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 しかしは貞永元年(1232年)の火災で一度焼失し、現存する仏像等はこれ以降のもの。
 歴史上しばしば登場するお寺であり、山崎の戦いでは秀吉の本陣となり、禁門の変では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた場所だ。
 代表的な文化財として、本堂の本尊の木造十一面観世音菩薩立像(1233年)や、秀吉が寄進した三重塔がある。これは大阪城と同じ瓦がつかわれているらしい。

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 現在は上の写真のように小さな山寺だが、鎌倉期には大きな伽藍があり、京都にも名の知れたお寺だったそうだ。大山崎から京都の街中に油を売るため移住し、祇園祭も取り仕切った「京住地人」たちが、十一面観音像を寄進したらしい。ということが、観音像の体内文書に記してあったそうだ。

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 (山号はもちろん「天王山」)

 このお寺にある閻魔堂の、閻魔様を始めとする5体の仏像の艱難辛苦に満ちた運命について、林先生からの話をうかがう。
 実は、彼らは元は西観音寺というお寺の仏像だったのだが、例の明治の仏難・廃仏毀釈のため、西観音寺が神社に宗旨替えをし、仏像を打ち捨ててしまったのだ。道端に捨てられた仏たちを気の毒に思った宝積寺の住職が、檀家さんの力を借りて宝積寺に安置されたのだそうだ。しかし安置していた場所が老朽化し、帝国博物館(現在の京都国立博物館)が預かることとなった。彼らが戻ったのは、なんと、平成8年に収蔵庫が完成し、平成12年にやっと里帰りを果たしたのだった。

 それは15年以上までだけど、京博のひんやりした2、3人しか観覧者がいない以前の常設展示室で、閻魔様とその眷属たちを見た記憶が、私にだってある。展示室でその存在を誇示する迫力の方達だったので、目を奪われたのを覚えているのだ。

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 こんなふうに居場所を点々とされた「さすらいの閻魔さま」だったのだ。山崎の地でこれからは安心して永住されますように。

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2015/11/29

起死回生の聴竹居  新聞/雑誌

 今日はブログ記事を書くため、ウェブ上であちこち調べている時に、たまたま発見した新聞記事の話。今でこそ建築の素人にも知られるようになった聴竹居だが、ほんの少し前までは、竹中工務店の社員ですら知らない物件だったらしい。しかも老朽化が激しく、解体の危機に瀕していたのだ。

 という記事を2015年10月30日の日経新聞のウェブ版から見つけ出した↓
http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC15HA6_Z21C15A0AA2P00/

 発端は、竹中工務店の一人のサラリーマンが阪神大震災を機に社史を調べ、87年前にOBが手がけた重要文化財級の私邸がひそかに現存していることを知った。取り壊しを防ぐためボランティアで管理し、地域住民の協力を得て保存活動に取り組む。日本の住宅史に欠かせない貴重な建物をよみがえらせる――。

 ボランティアで保存活動に乗り出したのは、竹中工務店社員の松隈章さん(57)。「阪神大震災の翌96年に初めて聴竹居を見学し、不思議な魅力を感じた。藤井の発想の奥深さに引き込まれた」と振り返る。


 藤井の子孫が貸家にして第三者が住み続けていた2008年、転機が訪れる。親交を深めていた子孫から「残していきたいが、老朽化で維持管理が心配だ」と相談を受けた松隈さんが、自ら借家人になったのだ。

 「維持費を捻出するため有料で一般見学に対応する体制にしたらどうか」と大山崎町職員から提案を受けた松隈さんは、紹介された地元有志6人とともに、維持管理をするボランティア組織をつくった。見学ガイドも運営。貴重な古民家を内覧できると評判を呼び、今や年3000人以上の見学者が訪れる。 2013年には天皇皇后両陛下が視察にみえたことで、一気に有名になったらしい。

 松隈さんは「20年前は竹中工務店の社内で聴竹居を知る人は少なかった。それが今では新入社員の皆が『学生時代に見学に行きました』と言ってくれる」と目を細める。地元ボランティアの荻野和雄さん(71)は「ガイドの仕事は生きがいになった。町おこしにつながった」と話す。


 しかしむろん、そう着々とコトは進まなかったはずだ。松隈さんが聴竹居にであってから20年の歳月が流れている。老朽化した建物の修復には、並大抵ではない金額と人手が必要なのだから。

 たぶん松隈さんは、恋に落ちたのだと思う。聴竹居という満身創痍の建物に。それとも藤井さんの思いが乗り移ったのかも(そして後押しもしてくださったのかも)。

 でももちろん一人でやりとげられる仕事ではない。彼の熱意に人々が巻き込まれていき、先般私たちがうっとりしたような、かつての姿に戻されたのだ。(まだ「お茶室」は手を付けられていなかったが)。松隈さんをはじめとして、ボランティアの方々や、地域の方々に深く感謝したい。

 (緑字は新聞記事よりの引用)

 






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2015/11/28

聴竹居弁当♡♡  たべもの

 実は聴竹居の外で林先生の説明を聞いていたときから、空腹を感じていた。いつものおでかけより、ずいぶん早かったので、家事をしながら食べるという朝ご飯だったから。

 聴竹居のことをネットで調べ始めたとき、「聴竹居の特製弁当はうまい!」という記事が頻出していたので、えっ、食べてみたい、どうしたら入手できるの?とさらに検索を重ねると、「聴竹居見学会のときのみの、特製です」と出て来て、とてもがっかりした。

 ところがなんたるラッキー、そのあとこのツアーの記事を見つけて、「おお、これでお弁当がたべられるっ!」と小躍りした。お弁当付きの、しかも聴竹居内でのお食事という、願っても無いシチュエーションだったのだ。

 ということでお弁当を手にした時は、ハラペコとも相まって、うれしいのなんの。お弁当の外からも、中身のぬくもりが伝わって来る、作り立てなので、二重にも三重にも、うれしい。

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 れんくみさんいはく、
「冷凍のもんがひとつもない! ぜんぶ作ってある!」といたく感動されていた。豪華、というのではないが、しみじみと心に沁み入る美味しさ。揚げ物も、軽めの油を使っているらしく、口に美味しくもたれない。口当たりも柔らかく、冷えて固く角ばっているものがひとつもない。

 ほどよい薄味で、カボチャの煮物なんかは、家では絶対作れない味だけど、きわめてアットホームな美味しさ。私はそれ以来、私しか食べないカボチャの煮物なのに、再現出来ないか2度ほどトライしてみたけど、あと一歩なにかが違うのだ。もしかするとカボチャ自体が違うのかもしれない。

 みんなが「おいしい、おいしい」と食べているので、スタッフのおじさんが、
「先週のツアーのお客さんは、『吉兆の弁当よりうまいわ〜♪』っておっしゃってました」と、鼻高々でうれしそう。「この近くの料理屋さんが、がんばって作ってくれはるんですわ!」と一言添えるのも忘れない。

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 それほど料理屋さんのお弁当を食べたことはないのだけど、こんなおいしいお弁当は、ちょっと他にないと思う。きっとちゃんとした素材と、きちんと丁寧に作っているかどうかの違いなのだろうな。
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2015/11/27

聴竹居 玄関  建築

 最後になってしまった「玄関」。ここは家に入って最初に目にする場所なので、藤井さんはホッとするような場所を目指したような気がする。他の部屋より、デザインもリズミカルで可愛いみたい。

 まず外側から。

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(写真は、とんぼの本『聴竹居』平凡社 より 以下も同様)

 そして内側。

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 左右が目隠しになるように円のモチーフが施された、作り付けのパーテーション。左右にあるので居間や食堂の入口なども隠してくれる。

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 ドアの周りのアンシンメトリーな窓がかっこいい。ガラスのカッティングが可愛い感じにブリリアント。自然光で、玄関を明るくしてくれる。足元には伊東忠太先生の作った不思議な生き物(ゾウか?)の石像が、ここにも家の守り神のように佇んでいる。

 しかも格子が大きくてわかりにくいが、神社仏閣に使われる格天井になっている。客人を手厚く迎え入れる心配りを表しているとのこと。

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 いまさら驚くこともなくなったが、ドアのカットガラスはドイツ製。当時(昭和2〜3年)だから相当に高価なはず。

 帽子(コート?)掛けのフックが規則的に、上下に位置を変えているのがお茶目。ちょっとしたことなのに、まるで空気が変る。デザインってすごい。
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2015/11/26

聴竹居 客間  建築

 応接間というと、ソファのセットやシャンデリアや高級洋酒のボトルが飾られた飾り棚のある、家の中でもゴージャスな部屋を思い浮かべてしまう。

 私の子どもの頃はちょうど高度経済成長のまっただ中だったので、応接間をつくるのが大流行りだった。そのときの必須アイテムが上記のものたちだったのだ。まだその頃は乙女心も若干あった小学生の私は、レースのカーテンをカラダに巻き付けて纏ったり(ジュディ・オングの「魅せられて」か!?笑)、シャンデリアの「水晶もどき」が欲しくて、はずせないものかと見上げたり、洋酒の味を想像したりしていた。わざわざ応接間でソファに沈み込みつつ、ゴージャスな気分で(笑)読書するのも好きだった。

 しかし聴竹居の客間は、いたってシンプルである。たしかに時代は違うが、シャンデリアもソファも高級洋酒の棚もない。彼は本物の大金持ちだったから、そんな小細工や見得とは無縁だったのである。というか、そういう憧れ自体を持っていなかった。彼の美意識は、そういうものとは無縁なのだ。

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(パンフレットより)

 広い床の間の上にあるのは、ピラミッド型の照明だ。ほんのりとした灯りは、壁を抜いてある裏側の床の間も照らす仕組みになっている。まさにピラミッドパワーなアイディアだ。

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(写真は、とんぼの本『聴竹居』平凡社 より 以下も同様)

床柱は煤竹で、隣の仕切りにも細い竹が数本配置されている。

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 窓際の作り付けの長椅子は、電車のロングシートのようで、懐かしさも漂っている。ちょっとチャイニーズテイストの窓枠もお洒落。天井は杉網代で、中央の照明の幅の部分には、杉板が嵌め込まれている。

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 中央の椅子は、台座の奥行きが広くなっている。これは当時まだ和服が主流だったので、帯のお太鼓部分の厚みも計算に入れた奥行きなのだ。肘掛けは短く、袖が引っかからないようにという配慮である。テーブルの天板はゆるやかな糸巻き型になっており、足の出し入れがしやすくなっている。これは現代でも欲しいアイテムだ。

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 ちなみに藤井さんは美意識の塊なので、家具も食器もご自分でデザインされている。細部まで家中に、統一感を持たせたかったようである。手前にあるのは、すでに現役は引退しているけど、蓄音機だ。音楽でお客様をおもてなしする、というのが、彼の趣味だったのかもしれない。

 居心地はいいけど、寛ぎすぎないような「お客様用」の部屋になっている。私が藤井家の娘でも、この客間へわざわざ読書しに行く、という気にはならないだろう。それぞれの部屋の用途というものが、見事に部屋の空気感となっているからだ。
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2015/11/25

聴竹居 食堂&台所  建築

 居心地よく暮らすための細かな工夫は多彩にあるけれど、デザイン的にはシンプルシックな聴竹居の中で、ひときわ大胆で斬新な意匠が見られるのが「食堂」、ダイニングルームである。

 どこがっていうのは、一目瞭然。下の写真は食堂から居間を見た所。入口と対角線に座れば、和洋どっちの居間にも目が届くらしい。

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(パンフより)

 居間との区切りにドアはなく、入り口に当たる部分には、半円の意匠。こんなの誰も思いつかない。一般住宅の出入り口に円形を使うなんて。しかもこの形は、入口の柱と真っ正面に向き合う形の場所に座ると、きれいな半円に見えるのだ。

 少し段差があり食堂が居間より高くなっているので、私が住んだら何度も躓きそう(汗) お年寄りが住むとかバリアフリーという概念は、藤井さんにはなかったらしい。

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(写真は、とんぼの本『聴竹居』平凡社 より 以下も同様)

 でも壁の向こうは台所なので、壁の小さな扉をあけると、そこには台所と共有の棚があって、配膳がセルフサービスでできるシステムもある。ある意味、学食や社食のようでもある。配膳はお手伝いさんがするからそこに利便性を求めなくても、という発想はない。あ、でもモデルルームでもあるから、「奥様にも喜ばれますよ」というアイディアは必要かも。

 同様に調味料の棚も台所とダイニングの共有になっており、醤油や胡椒がテーブルに出しっ放しにはなっていない。いかにも几帳面で、整理整頓好きそうな藤井さんらしい。
 
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 こんなレストランやカフェがあったら、ぜひ行ってみたい。どこかにありそうな気もする。でも長居しちゃいそうで、お店に取ってはちょっと不利かも(汗)

 次いで台所に移動する。主婦の城でもあるので、興味津々で説明を聴く。

 台所は清潔をむねとする場所なのでという理由から、オフホワイトで統一されている。木の部分は温かみのあるクリーム色がかった白に塗られ、タイルも白。壁の漆喰はそのまんまの冷たい白だ。

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 ただし床と天板は他の部屋と同様に濃い茶色だ。調理台の天板もしっかりとした厚みのある一枚板なので、いまでも使えそう。
 シンクの隣には、ダストシュートも設置されている。これは主婦にはうれしい。うれしすぎる。

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 台所には収納場所がいっぱいある。下方、上方と収納場所だらけ。観音開きの扉、片扉、引き戸、何段もある引き出しと、これでもかというほどある。主婦が泣いて喜ぶ収納の数だ。むろん床下収納だってある。その辺は藤井さんも抜かりない。

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 上板の下にある引き出しの把っ手は、取っ手の部分がはみ出さないように計算されて上板を張り出してあるそうだ。さすが、こまかい!!

 そして昭和の初期だというのに、電気冷蔵庫があったとか。当時のものなので、まだ冷凍機能はない。しかし、大山崎山荘を作った実業家の加賀正太郎ですら持っていなかったという、莫大なお値段のものだったらしい。どれくらいかというと、「聴竹居」一軒分と同じお値段だったとか。家一軒分じゃないよね、それ。聴竹居自体がカネに糸目をつけないで作ったものだから(汗) そりゃ戦後でも氷を入れて使う冷蔵庫だったから、とんでもないことだ。

 巨大な配電盤のある2畳の小部屋が台所横にある。これは女中部屋でもあるのだが、この配電盤の操作係も一人やとっていたらしい。なんと聴竹居はオール電化の家でもあるのだ。

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でも「聴竹居」のコンセプトを考えると、いまなら藤井さんは、自然エネルギーの自家発電装置の設置も考えそうな気がする。
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2015/11/24

聴竹居 読書室  建築

 藤井さんが心血を注いだのは居間や縁側だと思うのだけど、私とれんくみさんが一番盛り上がったのは、読書室(勉強部屋)だ。藤井さんにはお嬢さんがふたりいらっしゃったので、ふたつの勉強机が縁側に向かって並び、お父さんの藤井さんの机も、少し離れた窓に面して置いてあった。他の部屋同様明るすぎず、とても落ち着く明度だ。(写真は、とんぼの本『聴竹居』平凡社 より)

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 我家でも、学習机なんてぶっとばせ!という珍しく夫婦で一致した意見を見たので、小学校に入る子どもたちには、大人用の中古の木製デスクを調達した。Kちゃんなどは、アンティークショップで使用されていたアンティークの事務机だ。本職が気に入って使っていたものを横取りなのである(売り物件ではあったのだが・汗) 

 そんな私たちの目の前にあるのは、まさに私が理想とする机と椅子と本箱だったのだ。机と本棚は、作り付けのもの。深いチョコレート色がシック。机の前には障子があり、開けると縁側の窓が、外の景色が目に飛び込む。普通なら障子が窓の半分を遮ってしまうけれど、さすがは藤井さん、開けた障子が収納出来るよう、壁の所にも溝を作っていた。えらーーーい!

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 もっとも2人のお嬢さんの賑やかさに辟易したお父さんと、お父さんがいると煙たいお嬢さんがたが同室できるわけもなく、ほどなく「お父さん」は別室をつくり移動したとか。父と娘が高度な会話をしつつ、教え教えられ、学びあい読書するという構図を、藤井さんは夢見ていたのかもしれない。

 あまーーーい!

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 しかも子どもが一室に2人居て、勉強できると考えているのは、もっと、あまーーーい! 

 外から鍵が掛けられる部屋らしいのだが、縁側に面した障子窓(というか壁が抜いてある)からするりと出られるので、まったくもって無意味。

 もしかしたらこれは、お子様にはわからないアダルトなセンスなのかも。世のお父様方も、きっとこういう書斎に憧れているんだろうなあ。もちろん自分ひとりきりの。

 以上、書いてから思いついたんだけど、そして世のお父さんたちの夢を壊す思いつきでもあるんだけど、もしかしてお嬢さんたちは「父親追放作戦」として、確信犯で騒いだのでは(汗)
 娘って父親を愛していても、近くにいるとうっとうしいものなんです。そこ、わかってあげてくださいね。
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2015/11/23

聴竹居の居間と縁側  建築

 さすが建築体温の高い集団なので、入った早々、みなさん顔を輝かせて熱心な観察に余念がない。林先生は興奮さめやらない一同を満足げに眺めつつも、まずは説明ということで、ひとくぎりしてから一旦居間に集合をかける。

 写真は撮り放題なんだけど、ネットにアップはできないので、パンフレットから写真をお借りする。

 まず聴竹居は自宅として建てられたので、8人が生活できる空間を確保してある。自宅で8人は多いとお思いかもしれないが、むろん金満家の藤井家には住み込みの使用人もいるのだ。

 各部屋ごとに天井や照明器具が異なり、部屋ごとに変化を持たせている。居間の天井は襖と同じだそうだ。「隠す収納」ワザも取り入れられ、神棚や仏壇も普段は戸袋や扉の向こうだ。総じて最小限の幾何学的なデザインと、機能的でシンプルな内装で統一されている。

 聴竹居は居間を中心にした作りになっており、団らんの場である居間に、藤井さんは全精力を注いでいる。フローリングでテーブルと椅子の場と畳敷きの場の2カ所が居間である。もちろん畳敷きの場は、フローリングよりも床が高いのだが、畳で座る人の目線が椅子の人の目線とあうように計算されているそうだ。そこまで!

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 またその段差の部分に、開閉出来る扉がついている。扉の中には「クールチューブ」というものがあり、夏には涼しい外気を取り込むことができるらしい。−3℃違うそうだ。自然の力を最大限に取り入れている住まいなのである。

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(とんぼの本『聴竹居』/平凡社 より)

 次にサンルームである「縁側」の部屋へ移動。「縁側」というだけあり、細長い部屋なのだが、そのフローリングの床板は、端から端まで1枚なのだとか!なんという贅沢!! 4人がけのテーブルがゆったりと3つは並んでいるくらいの、けっこうな長さのある部屋なので、その長さを1枚板で取るとは!

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 サンルームの天井は網代天井だ。網代天井はそれ自体空気が抜けるし、中央の天井部分には、クールチューブの部分同様、左右に開閉出来る木の引き戸がついていて、そこから空気の入れ替えが可能になっている。

 屋根は銅板葺きで軽い上、庇もはね木工法(屋根の内部から屋根勾配なりに入れて、軒先を支える)になっているので、角の柱がなくても大丈夫らしい。角にはごく細い枠が入っているだけで、この部屋をぐるりとガラスで取り囲み、窓からの景色を最大限楽しめる工夫なのだ。
 170p以上の窓部分、そして下のチリ窓には、磨りガラスが入っている。つい見落としそうになったが、この時代のガラスとしては画期的なことに、ガラス面が歪んでいない。なんとガラス自体が貴重品だった時代に、ドイツ製の板ガラスを入れてあるとのこと。

 うーん、床材といいガラスといい、カネに糸目をつけないというのは、こういうことを言うのか・・・。一目みたら贅沢でゴージャスなものとわかる手の込んだものより、こちらの方が金持ちの格が上だと痛感する。

 さらに、彼独自のこだわりもサンルームの窓にはある。閉めるに従って、窓の溝を狭くしてあるのだそうだ。そうすれば、窓は隙なくぴったりと閉まるからだ。おまけにガラスを止めるビズの溝が、縦の並びのは溝が垂直に縦になるように、横の並びのは溝が水平に横になるようにと指定してあるのだ。

 そこまでしたのか!! ・・・いや、そこまではしなくとも(汗)
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2015/11/22

ついに聴竹居!  建築

 このツアーのタイトルは「錦秋の旅」だったが、滋賀県よりは紅葉が遅れているようで、残念ながらモミジはなかば青い。

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 山の中に入って行くので、階段を上がったり、坂道をのぼったり、途中なかなかキツイ場所もあった。が、まだ雨は降っていなかったので、なんとかかんとか付いて行けた。聴竹居に近づくにつれ、ゆるやかな下りの坂道に。

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 さてそろそろ聴竹居が、その片鱗を見せ始めました。

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 ついにアプローチまでたどり着く。「聴竹居」という素朴な看板が足元にある。そしてこの先は階段になる。

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 ピンぼけで申し訳ないけれど、石を組み合わせた階段の全体。デザイン性と機能性を融合させているのが心憎い。足にも目にも優しいのだ。

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 足元はこんな風。

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 段の高さ、ステップの広さも、よく考えられている。

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 登りきった場所にあるオブジェのイメージは、心覚えがある。
西本願寺伝道院で見たものと似ている。その伝道院や大雲院(祇園閣)の作者、伊東忠太の作ったオブジェだ。

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 聴竹居を作った藤井厚二は、東京帝国大学工科大学建築学科で、「法隆寺建築論」を発表し平安神宮や築地本願寺を設計した伊東忠太に教わっている。彼が建築家になる上で、影響を受けた人物なのだ。このオブジェは、伊東忠太へのオマージュなのだろう。ちなみに玄関の中にも同じ物があった。
 
 「家の作りやうは、夏をむねとすべし」。 これは「徒然草」の55段の言葉だが、これを忠実に守って作られたのが、この建物だ。

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 藤井厚二は、明治21年に広島県福山市で生まれた。地元で代々造酒家の次男として生まれた。藤井家は豪商で、恵まれた環境で、最高の物に囲まれて暮らしたようだ。彼の美的センスや本物を見極める目はすでに、幼い時から磨かれていたのだろう。成績優秀でスポーツも万能だったようだ。こんな人間もいるのである。

 大学では先述したように伊東忠太の教えを受け、就職した竹中工務店では、「関西建築界の父」と呼ばれる武田五一と出会うという、素晴らしい師たちにも巡り会っている。

 彼が恵まれた財力を生かして、山崎の地に12,000坪の土地を購入して、住宅を研究するべく、5回の「実験住宅」を建てた。

 大正時代には西洋化一辺倒の時代思潮のなかにあって、彼は日本の気候風土に適した住宅を環境工学の視点から科学的に捉え直し、その在り方を追求した。5回目の実験住宅が、環境共生住宅と言われる「聴竹居」だ。これは最高のマイホームであるとともに、顧客に見せるモデルハウスでもあったようだ。

 関東大震災を教訓に、平屋建てにし、屋根の重みを押さえるため銅板葺きになっている。また太陽の角度から日照りを計算し、勾配と庇の長さを変えているため、屋根がなだらか。

 正面は縁側(サンルーム)になっているので、一面がガラス窓。縁側の角には柱がなく、本来壁と柱があるべき部分も窓が設置され、大変美しい仕上がりになっている。また、窓の上部と下部には、プライバシー保護のために磨りガラスを用いた細やかな気遣いが見える。

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 というような林先生の説明を、降り出した雨の中で聴く。

 そしていよいよ、お弁当・・・ではなく、その前に内覧だ! 聴竹居の内部へ潜入だ。
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2015/11/21

境界線♡  おでかけ

次のポイントは、聴竹居にいく途中にあった。日程にはない場所である。「ブラタモリ」みたいな感じの、オン・ザ・ロードな面白ポイントだ。

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 これより東、山城の国。現在で言えば、京都と大阪の境目である。

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 このなんの変哲も無い山からの水の流れが、国境となっている。

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 大山崎町の看板の少し向こうは、大阪の山崎町なので、大阪W選挙のポスターが貼ってあるのだ。

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 見学者は大阪にいたり、京都にいたり。

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 なぜか国境には付きものらしい神社もある。「関大明神社」は大阪府指定有形文化財だ。これは室町時代中頃にできたらしい。

 この土地は古くは交通の要衝として関所「山崎関」が設置され、この関が関大明神社の名前の由来となっているらしい。平安時代に関所が廃止された後は、「関戸院」として貴族や官人の宿泊施設に使われたといわれている。

 治安三年(1023)関白藤原道長が高野山と四天王寺参詣の帰途に立ち寄ったことが古い記録にあり、また平家落ちの途中、安徳天皇の御輿を据え、京都還幸を祈ったとされている。山崎はここもそこも、歴史の宝庫なのだ。

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 また西国街道の宿場町で、今も路の途中に古い建物が散見される。サントリー蒸留所の行き道にあるので、もしも蒸留所にいくときに見逃さないように。

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 その後移動開始。線路の下をくぐる細いトンネル状の通路を、一列になって歩く。ひび割れから水が滴り落ちる、夜には絶対通りたくない場所だ。トンネルを抜けると金網が張った線路沿いの、細い道を行く。ホームが見える場所で少し立ち止まり先生の説明が入る。

 「ここも京都と大阪の境目です。ホームの途中で県境があるのは珍しいですよ。ここだけです」

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 そういう看板がホームにあるのはネットで予習はしたが、実物をみるとやはりウキウキする。

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 境界線は、なんでこんなにワクワクするんだろう。そういえば昨夜の「ブラタモリ」軽井沢編のタモリさんも群馬県と長野県の県境で、なんかうれしそうだったな。
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2015/11/20

離宮八幡宮(続)  神社仏閣/教会

ということで、林先生に話はバトンタッチされ、室町の頃は荏胡麻独占で巨万の富を得た上、八幡宮という神様をバックに従えていたため、お上も一目置く山崎のひとびと。だからその地にある離宮八幡宮には、権力者からの文書(もんじょ)なども300通ほど残されている。

 今回は、天王山の戦で山崎の地を戦場にしないよう(「禁制」というらしい)願い出た所、「禁制」を承知した明智光秀、羽柴秀吉双方から貰い受けた文書を拝見した。こちらはいわゆる古文書綴りなので、まったくもって読めない(汗)
先生がおっしゃるには、こういう文書を書く担当者がいて、権力者はサインのみだったらしい。

 また、林先生いうところの「これはなかなか見せてもらえない貴重な資料です」な、足利義満から守護不入権等を保証した「御教書」も拝見できた。先生がおっしゃるには、「室町の頃の正式文書は楷書が基本」なので、私でも読めたくらいわかりやすい。

 古文書を見ながら、各人先生にフリーに質問されていた。そんななかで、「石清水八幡宮って、ここと男山とふたつありますよね、宮司さんはこちらの方が古いとおっしゃっていましたが、どちらが先にできたんですか?」と質問される方が。すると先生は「この場所でそれは口にしづらいですが」。

 ええっ!? そうなの? でも確かに男山の岩清水八幡宮ってものすごく由緒正しいし、高校のときの古文にも出てきたような記憶もあるし・・・。と思っていたら、件の質問した女性が「歴史はつくられるんですね〜」。

 おおっ、なるほど〜。吉良上野介が治めていた地では、彼は名君と慕われていたことを思い出した。忠臣蔵のおかげで、彼はすっかり悪役だもんなあ。

 神社のご由緒だって例外ではないだろう。宗教関係はさらに、伝説や物語が混入してるものだし。昔は権力を持っていた場所だから、声も大きかったろうし。 歴史は人間によって(都合良く)つくられるもの。いつも真実とは限らない。本日の収穫だね。

 ここでは、記念のお土産として「油断大敵」のお守りをいただいた。油の神様だけに。そして林先生は、ここでも小声で、「『油断大敵』は比叡山延暦寺の『不滅の法灯』から来ているんですが、荏胡麻油の神社ですから・・・」。

 社務所を出て、礎石のある場所を見てから、次なるポイントへ。
 
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2015/11/19

離宮八幡宮  神社仏閣/教会

妙喜庵から見下ろす場所に、次なるポイント「離宮八幡宮」がある。

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 まずは本殿にお参りをしてから、社務所にて宮司さんと林先生のお話を聞く。そのあと、神社に伝わる歴史的に貴重な文書を拝見する。という流れだ。

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 由緒をたどれば「離宮八幡宮」は、平安時代のはじめ、国家鎮護のため九州は宇佐八幡宮より八幡神を京へ御遷座したところから始まっている。貞観元年(859)国家安康、国民平安を目的とする「石清水八幡宮」(山崎)が建立された。

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 「石清水八幡宮」という名は、八幡神を奉じて帰京した行教が、この地の夜の山(神降山)に霊光を見、不思議に思いその地を掘ると、岩間に清水が湧き出したことに由来する。そして、ここにご神体を鎮座し、社を創建されたのだ。京都の八幡市にある男山の「石清水八幡宮」は、分祀されたものらしい。

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 しかしここは、嵯峨天皇の離宮である「河陽宮」の跡地であったため、後に社号が「離宮八幡宮」と改称される。

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 もともと山崎の地は、燈明用油として奉納されていた荏胡麻油の搾油が盛んだった。しかも「長木」という効率的な搾油器具を発明し、飛躍的に出来高が伸びた。室町時代に入ると「油座」として、離宮八幡宮は油の専売特許を持つようになり、巨万の富を集め絶頂期に入る。一時は「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え、栄華を極めた。

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 しかし平家の時代から「奢れる者は久しからず」ともいう。

 陰りが見え始めたのが、織田信長の「楽市楽座」政策で、モノが自由に売買されるようになってから。荏胡麻油の独占ができなくなったところへ菜種油が大量生産され、これに市場を奪われてしまった。

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 また幕末の「禁門の変(蛤御門の変)」でも、戦に巻き込まれて建物は焼失し、すでに廃れていたのだ。上の写真は神社の礎石だが、「禁門の変」の戦で焼けて、もろくなっているそうだ。

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 「離宮八幡宮」は、明治9年に国に召し上げられた広大な神領にJR(国鉄)が通ってしまったので、当然駅近。元・神領だもんね。
 それでも明治12年に崇敬者の寄進により社殿が再興、昭和4年(1929)に改築されて今日に至る。

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 というような話を、宮司さんよりしていただく。「私の持ち時間は5分ということですが」というところから始まったが、もちろん5分で済む訳は無い(笑)
 荏胡麻の搾油器「長木」と、それ以前の搾油器の「木製模型」を使っての搾油方法なども詳細にわたって説明してくださった。

 そのうえ、「いまや国家安泰など一国だけの平和を望んでも意味がなく、世界の国々すべてが平和にならなければ! そして人間にとって大切なものとは・・・」と宗教的信念などもアツく語られていた。参加者はみなさんオトナなので、遮る人もいない。ひととおり語り終えられたあと、やっと林先生にバトンタッチして退場される。

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2015/11/18

妙喜庵/待庵 (続)  建築

 仏間の書院からつづく庭に面した縁側が、ゆったりひろびろで、ここにいるとうっかりのんびりしてしまいそう。庇も長い。長い縁側の先にも、一段低く小振りな縁側も付いていたので、よけいに広く感じたのかも。

 縁側を降りて、用意されているツッカケをはき5人ずつ順番に、右手にある待庵を見学する。帯状に石が埋め込まれたアプローチを曲がれば、待庵のにじり口に到着する。一般的なにじり口より広めだ。これなら太め体形でも入りやすそう?

 待庵の屋根は杮葺きの切妻屋根。待庵はわずか二畳という極小の「茶室」、及び一畳と細い板を敷いた「次の間」、水屋である一畳の「勝手の間」の三室から成る。二畳なので、客はひとりかふたりになるが、太鼓障子をはずして板土間も使うと四畳半になり、6人は入れるらしい。

 躙口から茶室内部を観ると、その正面には簡素な床が設けられている。これは奥の柱が塗り籠められた室床(むろどこ)で、かつては利休の書がかけられていたという。柱が塗り込められたことで、二畳の部屋が実際より広く感じられるらしいが、たしかに思ったより広く感じる。

 おまけに天井が「掛け込み天井」(屋根裏の構成を室内に見せて、傾斜天井となっているもの)と「平天井」(天井面が水平になっているもの)が組合わさって、天井の高低差が部屋を広く見せている。

 壁は藁を混ぜた荒壁で、下部には和紙を張った素朴なもの。東側には四角い下地窓が二つ、南側の躙口上部には連子窓が開かれ、室内に光を採り込んでいる。連子窓はほどよい太さの竹が、土壁に空けられた窓に鉄格子(!?)のように入っているもの。次の間と勝手の間にも、一つずつの下地窓が設けられている。
 明るすぎず暗すぎず、適度な明度の部屋になっている。さすが利休がつくったという待庵である。

 ところで荒壁は藁がすき込んであるため、ヒビが入りやすいのだそうだ。しかし400年前の壁はヒビひとつない。阪神大震災の揺れにもびくともしなかった。おそるべし、400年前の職人ワザ。

 荒壁には黒いところやベージュのところがあったので、その差はなんだろうと思い林先生に質問すると、黒いところは火を使った時の煤などがついているのだろうとのこと。

 待庵の見学を終え書院から待庵を見ると、樋が孟宗竹を半分に割ったもの。それは先日の光悦寺のお茶室にもあったのだけど、雨水を落とす筒状の部分も竹なのが素敵。で、その竹の先の地面の周りには、大振りの石が一重に竹を取り囲むように並べられ、そのまわりを小石がドーナッツのように囲んでいた。いいなあ。

 これで下が水琴窟だったら・・・って、雨が降ったら鳴り続けてやかましいわ〜! 少なくとも利休の趣味ではありえない。水琴窟は「つくばい」や手水鉢とかだからいいんだって。

 書院の奥の濡れ縁を歩いていると、静岡からグループで参加されている中堅な年齢の方のひとりが、メジャーで濡れ縁を図っておられた!
「やっぱり4尺ある!3尺だったら、狭いよね!」

 メジャー持参で、しかも「尺」という単位を普通に使う方々が参加されていらっしゃるとは! それは「専門家集団」ではありませんか! というようなツアーでもあったことに、このとき初めて気づいたのでした。
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2015/11/17

妙喜庵/待庵  建築

 当日、電車で傘の忘れ物をするというアクシデントがあったものの、降車駅ですばやく対処したので戻って来る確率は高そう。いまのところ曇りなので、傘の出番はない。そしてなんと傘の他にポンチョも持って来ているという、セーフティネットが万全なふたり(笑)
 私だって「電車で傘を忘れる」自信が満々だったので、折りたたみ傘を用意していた。でも雨量が多い場合には小さな面積しかない傘で対処しきれないため、ポンチョもリュックに収めていたのだ。

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 ちいさなかわいい駅舎で集合して、出欠を取って資料をいただく。20名が定員のツアーだが、ちいさい駅なので構内は満員(笑) そして今回は、いままでになく年齢層が若い! そして後ほど知ることになるのだが、新幹線でみえたほど遠方からの参加者が少なからずいらっしゃった。
 えっ、そんなタイソウなツアーだったのか!? 「ハイグレード」と冠してあったのは、まんざら過剰広告ではなかったらしい。

 最初のポイント、「妙喜庵」へ。

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 「妙喜庵」付近より駅を撮影。これほどの駅近物件なのである。

 千利休の茶室、国宝の「待庵」を持つことで有名。というか「待庵」が有名過ぎて、逆に「妙喜庵」って?と混乱することも。

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 なんと「妙喜庵/待庵」を見学するには、およそ1か月前までに往復はがきによる予約が必要で、そんなめんどくさいことをしないといけないばかりに、私はこの場所を通るたび、指をくわえてスルーし続けていた。見学が許可された場合も、にじり口からの見学で、内部には立ち入れない。

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 そんなめんどくさいことをしても見たい、という人がいるのは、「待庵」が日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室だからだ。しかもこの茶室には、いまだに多くの謎があるみたいだ。
 現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型らしい。また数奇屋建築の原型ともされている。

 私のように見学の手続きがめんどくさい方は、近くの大山崎町歴史資料館に「待庵」の創建当時の姿の原寸大復元模型が展示されているので、ぜひそちらにどうぞ。

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 この碑で、千利休の名前があるのは、もちろん茶席「待庵」があるため。秀吉は天王山の合戦後もこの地に城を築き、半年間ほど住んでいたため。そして千利休を招いて城下に二畳の茶室を作らせたといわれている。また連歌の祖である山崎宗鑑が住んでいたとの説(事実かどうかは別にして)もある。

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 「妙喜庵」は昭和初期に建て替えられたものだが、重文や国宝へのアプローチとして、この階段や手すりは、もうちょっとなんとかならなかったものか。まるで子連れで行く公園みたいなビジュアルに見える。

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 さて、「妙喜庵」に足を踏み入れると、三和土には瓦が2枚埋め込まれていた。

 また靴を脱いだ足を踏み出す「式台」には、板の間に細い竹が2本渡されているのが、詫びたお洒落感を醸し出していた。そういえば、千利休は竹で花入れを作ったりしてたっけ。茶杓だって竹たし。もしかしたら彼は「竹好き」なのかもしれない。

 庵というだけに、最初の部屋はいきなり本堂になる。20人はいるとぎっしりな、ちいさな本堂である。寺院ではなく庵ですからね。
 そこで引率してくださる案内人であり、山崎の研究者である林先生に、山崎の歴史、地理的特徴、本能寺の変から始まり天王寺の合戦に至る詳細な説明をしていただく。

 このなかで林先生は、「僕がいままでイベントをした中で、雨が降ったことは1回もありません! だから今日も降ってないでしょう?」 と自信満々に宣言されたのだった。
 さて、天気予報VS晴れ女・晴れ男の結果やいかに。

 付記:2015年の6月より、全面的に内部の写真撮影が禁止になりましたので、それ以前のブログなどを探して「妙喜庵」の写真をご覧ください。「待庵」については、それ以前より内部撮影は禁止されていたそうです。
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2015/11/16

ハイグレードなウォークツアー!  建築

 夏の終わり頃、日本の名建築の写真集を図書館で借りて見た。富士屋ホテルやレイモンペイネ美術館など、気になる建物いくつかの中で、近場な物件も発見した。何度も行った京都の山崎にある物件である。

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 「聴竹居」という、藤井厚二さんという昭和の建築家さんが建てた個人住宅。自然の風を通し、陽光を取り入れたり、熱を逃がしたりするエコな工夫に満ちている。昭和2年にこんなエコロジカル住宅が建てられていたとは! 

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 もっと知りたい!というときに、インターネットは大活躍する。私はまったく知らなかったが、その筋(建築に興味のある人)には有名な物件らしいことが判明する。
 「環境共生住宅」とも呼ばれ、建築の専門家から熱い注目を集めているこの邸宅はまた、快適な住み心地や家族の団らんを追求し、機能的でありながら斬新で心地よいデザインが組み込まれ、さらに各所にサプライズも盛り込まれているのだ。

 いや、なにより写真をみて、一目惚れなのだ。これはぜひ訪ねてみたい物件だ。

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 「聴竹居」で検索してみれば、たまには公開されているそうだ。しかし、あまりの人気で順番待ちだった、長時間待ちだったので入場をあきらめた、という記事まで目にする。予約すれば見学は可能みたいだけど、門外漢の私にはそこまでして・・・というほどの情熱はない(汗) そうやすやすとは見られないのか。

 と思っていた矢先、

「2015・京大山崎・錦秋の旅 講師と巡るハイグレードな大山崎探訪」という項目が目にとまる。訪問先をみれば、「妙喜庵(待庵)、聴竹居 宝積寺 離宮八幡宮 アサヒビール大山崎山荘美術館」とあるではないか!

 「宝積寺」や「アサヒビール大山崎山荘美術館」は複数回行っているおなじみの場所だが、大山崎山荘美術館のほうは、非公開のお茶室ふたつの見学が組み込まれている。

 しかも!

 まえまえから一度見たかった千利休の茶室、国宝・待庵が組み込まれているではないか! おまけにステキな「聴竹居」のなかで、美味しいというウワサの「聴竹居弁当」が食べられるなんて。

 これは参加せねば! 是非とも参加せねばっ! 

 こんなまたとない機会を逃してはならないので、違いのわかる晴れ女・れんくみさんもお誘いした。彼女はいつもながら、チョー多忙ななか参戦してくださった。複数回開催され日を選べたので、11月14日を選んだ。

 前日の天気予報では、残念ながら雨の予報だった。しかし、となりの向日町では一日中雨予報だったが、山崎の予報は午前中は曇り、15時より雨とあった。さすがはあっぱれ晴れ女!祝健闘である。そして現地にいって判明したのだが、もうひとり、自信満々な晴れ男の存在も明るみになったのであった。
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