2013/12/4

待合室が好きだった。  ’70

 ときどき自分にお題を出して、答えを探すという一人遊びをすることがある。

 昨日もそんな日で、お題は「懐かしい場所」。今の気分で一番懐かしい場所はどこでしょう? と自分の心に問いかけてみた。

 懐かしい場所なんて、その日の気分で変わるものだが、昨日は子どもの頃かかりつけだった町医者の病院だった。アクセスのものすごく不便な、でも直線距離では一番近い「小野医院」だった。星新一似の先生と女性の薬剤師さんがいる小さな医院。先生のお宅を改築せず、むりやり病院に改造したような感じ。とてもアットホームな病院だ。

 4畳半の待合室で、読み放題の少女マンガ雑誌を読むのが、とてもとても楽しみだった。アニメより不気味なテイストが漂う『魔法使いサリー』も、ここで読んだ。少女マンガに開眼したのは、あの落ち着いた正方形の部屋の、縁にひだひだのついた白いカバーに入った座布団の上だった。
 しかし当時は少女マンガ界ではホラーが流行っていたので、うっかりトラウマになるようなマンガを読んでしまい、青ざめた顔で診察室に入ったこともあった。

 先生は清潔感溢れる、上品で冷静でもの静かな方だった。風邪には睡眠とうがいと温かくしておくと治ります、と落ち着いた口調で述べられた。注射が登場する気配はなく、子供心に安心して診察室に入ることができた。縦ラインの入った磨りガラスがついた白い医療棚が素敵だった。今でも憧れているほどだ。

 薬剤師さんは狭い薄暗い部屋で、天秤ばかりに分銅(ふんどう)を乗せて粉薬の重さを量り、パラフィン紙の様な紙片にきっちりとした折り方で包み、小さな窓口の磨りガラスの引き戸を滑らせ、「お待たせしました、お薬ができました」と呼んでくださった。もちろん私が薬剤師に憧れたのはいうまでもない。理系の人でなかったので、ほどなくあきらめたが。

 外観も好きだった。落ち着いたやや洋風のテイストのある日本家屋で、楕円や丸型にきれいに刈り込まれたランドマークになるような高い庭木も好きだった。当時は剪定の為せる業とは知らず、「あんなにきれいな形になる木があるんだ」と真剣にうっとりしていた。

 八日市線の武佐駅からもすぐで、のどかな2両編成の車両ががたこと走る気配も好きだった。

 今から思うと、メルヘンのような病院だった。今はもうないけれど、そのあたりを車で通る度に、つい首を伸ばして探してしまう、懐かしい場所。
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2011/8/3

江戸の敵は長崎で  ’70

 先日、何回目かの洗濯物を干していると、つけっぱなしのラジオから鮮烈に懐かしい音楽が流れてきた。ジョンだ! ジョン・デンバーだ。ラジオで彼の小特集をして、久しぶりに数曲聞くことができた。
 まるで10代に舞い戻って、心がきらきらして、山からの風が吹き抜けるようだった。

 私たちの世代でジョンといえば、ほとんどはビートルズのジョン・レノンなのだが、私はひたすらジョン・デンバーだった。他にもエルトン・ジョンとかオリビア・ニュートン・ジョンとかいるけどね。

 いまから思えば、ほとんど信仰のようだった。

 中学生から高校生にかけて、毎日ジョンのレコードを聴いていた。お年玉などでまとまったお金がはいってくるかして、2500円たまったら、草津の西友のレコード売り場に行っては、レコードを買っていたのだ。狂信に近い信仰(いや狂信そのものかも!)なので、ほとんどの彼のレコードは持っていた。

 彼に関する情報は集めまくり、音楽雑誌にあったポートレイトのページを切り取って、透明でファイル状になっている下敷きに入れて大切にしていた。彼に関する記事が有るというだけで、『メンズクラブ』みたいな男性雑誌も買っていた。十字屋で見つけた英文の薄い冊子やギターの楽譜まで買ったりした(結局ギターは弾けなかったけど)。ほとんど精神的ストーカーのようだった。

 彼が来日したときには、ほんとに武道館まで行きたくて行きたくて、どんなにほぞを噛んだことか。さすがに高校生の当時は、東京までひとりで行くのはムリだった。大学生だったらまた話は違っていただろうけど。
 そんなふうに、私の10代の時代は、ジョン・デンバーに捧げられていたのである。

 ただし彼が全てではなく、他にも熱狂していたものたち、人たちはたくさんいた。そんなプリズムのように分散した若いエネルギーは、残念ながら勉強方面には発揮されず仕舞だったのである(実のところ、そんなに残念には思っていない。好きなことをするのが一番身につくというのは、Tくんが証明している)。

 で、私がジョンの歌声に打ち震えた日は、奇しくもKちゃんが彼女の最愛の福山雅治さんのコンサートに初めて行った日なのだった。
 最初、彼女は行くかどうしようか迷っていたのだが、「高校生がコンサートくらい行かなくてどうする!」と喝を入れたのが私である。彼女は見たことも無いほどゴキゲンで帰宅した。

 そして私は、江戸の敵を長崎でうった気分なのだった。 
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2010/4/28

中学校の図書室  ’70

 中学生になって、図書室に古典的漫画全集があったのに驚き、放課後に読みふけっていた。

 漫画全集とはいえど、まるで華麗な文学全集のように、ハードカバーの豪華な造本だったので、よくよく見ないと漫画の全集とは気づかないくらい。手塚治虫の巻で『メトロポリス』(昭和24年に発表された作品らしい)を読み、水木しげるの巻で『墓場の鬼太郎』を読んだ。白黒で見たテレビアニメとは全く違う、不気味な話に愕然とした。

 鬼太郎の父は重病で身体が溶けて息絶え、身重のまま母も亡くなってしまうが、それでも自力で生まれて来た鬼太郎。子どもを残して死ぬに死にきれない父は、溶けて流れ出す眼球に自分の生命力を注ぎ込み、生きる目玉となり赤ん坊の鬼太郎を育てる。「目玉オヤジ」の誕生である。水木しげるがこれを描いたときには、目玉オヤジがこんなにも人々に愛されるキャラになるとは、思いもしなかったのでは?

 ということを思い出したのは、せんだっての「ゲゲゲの女房」の漫画原稿に、赤ん坊の鬼太郎と鬼太郎の父母が描かれていたのを思い出したから。あのシーンを思い出すと、一緒に夕方の図書室を思い出して、ノスタルジーに浸ってしまうのでした。
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2010/4/23

こどもは時間をもっていた(過去形)  ’70

 子どもの頃は、どうしてあんなに時間があったのだろう?

 友達とも遊んだ。本も読みたいだけ読んだ。テレビも思う様観られた。テレビに関しては、その黄金時代をリアルタイムで謳歌できた。しかも、どんなジャンルも縦断するくらいどん欲に観ていた。無制限にテレビをみせてくれた親に感謝したい。

 そんなすべてをラクラクこなしていたなんて、今から思うと信じられない。一日が50時間くらいあったのかと思われる。

 読み物で楽しみにしていたのは、定期購読してもらった雑誌だ。小学館の「めばえ」「ようちえん」「小学一年生」というふうに、毎年買ってもらっていた。

 小学校にあがってからは、学研の「学習」も購入してもらえた。こちらは学校で子ども自身に頒布されるので、発売日はウキウキの一日だった。

 しかも6年生は、最終学年ということで奮発してもらい、憧れの「科学」も定期購読してもらえたので、いやがおうにもテンションは高まる。理数に弱いくせに分野によっては興味津々なのは、そのときの喜びの記憶が定着しているせいかも。
 
 加えて、テレビで子どもも楽しめるサイエンス番組があったので、その影響もあるかもしれない。

 まさに「へたのよこずき」だけど、サイエンスの世界は不思議がいっぱいなワンダーランド。命や宇宙や自然の面白さは、文系の人間にも扉を開いてくれている、と思う。
 
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2010/2/14

憧れのケーキ  ’70

 子どもの頃には、ケーキといえばお誕生日かクリスマスに食べるホールのもの限定だった。だからケーキが食べられるのは家では年に2回だけ。

 といっても、当時は各家庭で友達をご招待して催されるささやかな「お誕生会」なるものもあり、そのときには決まってカレーライスと切り分けられたケーキだったように記憶する。ケーキとともに我家とは違うご家庭の様子を見るのが、とても楽しかった。

 なかで最も興味深かったのが、白馬に乗った正装の王子様だった。それから彼のご結婚の写真とか。それが額に飾られ、額の角には小さな座布団が敷かれ、床の間などの高い場所に飾られていた。家によっては3枚くらいあったと思う。それらは昭和天皇の写真である。昔からの家には、必ず飾られていたのだ。我家にこれがなかったのは、神道や神棚とは無縁の寺院だったからで、大それたポリシーがあったわけではない。

 話がそれたが、今日はケーキの話がしたかったのだ。昔のケーキはイチゴやフルーツなんて乗っかっていなかった。缶詰のフルーツすらなかった。あるのはクリーム、それもバタークリームである。

 でも、それをいまだに懐かしく思い出す。クリーム絞り器で手際良く、かつロマンチックに縁取られた中に、花弁を丁寧に作られたピンクの薔薇の形のクリームがあった。その薔薇には、銀色の仁丹が朝露のように数粒ちりばめられていた。これが私にとっては、うっとりするようなケーキの原風景なのだ。

 これが最近ひんぱんに瞼の裏に出てくるのは、高橋真琴さんの少女画と、記憶のどこかでリンクしているからに他ならない。ロマンチックなものに対して、今よりはるかにハングリーだったのだ。でもそれは確かに、幸せなハングリーだった。
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2010/2/12

虹と雪のバラード  ’70

「虹と雪のバラード」は札幌オリンピックのテーマソングだった。例によってウィキペディアより引用してみると↓ 

「虹と雪のバラード」(にじとゆきのバラード)は1972年2月に開催された札幌オリンピックのテーマソングである。作詞は河邨文一郎、作曲は村井邦彦。

 1971年3月からNHK『みんなのうた』の「札幌五輪のうた」のコーナーで流された。レコードは(中略)ジャッキー吉川とブルーコメッツやスクールメイツなどの競作で発売されたが、人気と売上はトワ・エ・モワの一人勝ちでこの年の『第22回NHK紅白歌合戦』でもトワ・エ・モワがこの曲を歌った。

トワ・エ・モワ『虹と雪のバラード』はオリンピックの開催に合わせたように徐々に売上を伸ばし、オリコン・チャートの7位まで上昇した。

人が集まるイメージと、町ができあがるイメージなどを盛り込んだ歌としてオリンピック後も人々に親しまれ、時々CMソングとしても流れる事がある。札幌を代表する歌のひとつとしてさっぽろ雪まつりの会場内でも頻繁に流され、ご当地ソングの代表的な例であるといえる。


 私は「みんなのうた」でこの曲を聴き、すっかり気に入っていたので、スポーツに関心が薄かったにも関わらず、札幌オリンピックには好印象だった記憶がある。なにしろまだ小学生だったけどローティーンだったので、トワ・エ・モアの歌は、若者っぽくて青春してて、かっこいい!!とあこがれていたのだ。

 昨日、バンクーバー・オリンピックが間近になったためか、オリンピック関連の番組がゾクゾク登場している。昨日も、札幌オリンピック(のジャンプ競技)を現在の視点から見るという番組をみていた。そのラストには、やはりこの「虹と雪のバラード」が流れていた。

 そのとき、Kちゃんが思わぬツッコミをいれたのだ。

「なんで、オリンピックのテーマソングやのに『バラード』やの? うち、ずっと不思議やったんやけど。なんでこんなクラい歌が、オリンピックのテーマソングなんやろて」

 まさに青天の霹靂! 追憶に浸っていた私とH氏には、雷に打たれたようなショックだった。
「いわれてみれば、ほんまやな〜!」
「オリンピックにバラードはないよなー、そのとおりや!」
「あれから何十年もたったけど、今初めて気づいたわ〜!」

 たしかに70年代にはあれがトレンドで、なんの不思議も感じなかったけれど、21世紀を生きる新しい人には、理解に苦しむことなのかも。ジェネレーション・ギャップっていうけれど、そのギャップこそが「面白い」んだと思う。お互いにね。 
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2010/2/11

乙女心炸裂!  ’70

 「えき美術館」で現在開催中の展示は、

『高橋真琴の夢とロマン展−少女達の瞳が輝く時−La petite princesse de Macoto』である。
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 このおめめキラキラでレース&リボン&ドレス&お花&ジュエリーという乙女チックさ加減が、これでもか!!という炸裂のチラシやポスターの絵に魅入られるように、この展覧会に集まったのは60〜70年代に少女だった方々がほとんどの模様。しかも60歳なかばと思われる二人連れの女性は、次の絵に移る度に、アツく語る語る!!

「わぁ、可愛らしい〜!! これ見て、この花がいっぱいなこと! このドレスの赤の色なんて、ちょっと見た事無いくらい可愛らしいわぁ〜♡ もう、すばらしい〜♥ ああ、日本の女の子もええなあ〜! 一寸法師の絵、最高や! ショップにあったら、絶対買お!」
「ほらほら、これ、この色のバランス加減なんか、絶妙やんか〜。 あ、私この表紙の雑誌持ってた記憶がある! なつかし〜〜!」
という調子である。

 そしてこれは、年代が違うとはいえ、そのまま私のハートの掴まれ具合を、そのまま言い表していたりするのだ。よって、彼女に共感の嵐だったりする。会場を進むうちに、ハートはどんどんタイムスリップして、70年前後(小学生だった頃)、高橋真琴キャラにうっとりだった自分へと遡る。

 彼、高橋真琴(そう、男性です!!)の少女絵は、少女雑誌のイラストや表紙、少女漫画のみならず、スケッチブックの表紙やショウワノートの表紙にもなり、多くの少女をうっとりさせたのである。ほかにも色鉛筆、筆箱、下敷き、水筒、靴などにもプリントされている。水森亜土や内藤ルネが活躍した時代でもある。

 でも私が一番お世話になったのは、やっぱり小学館の「小学○年生」でのお話についたイラストと、付録でついたペーパードールだ。ペーパードールは、首の部分が一番細くて壊れやすいのだが、その首が折れるまでひたむきに遊んだものである。もしかしたら首をセロテープで補修していたかもしれない。

 とにかく、その時代の少女達の周りには、あたりまえのように、いつも高橋真琴グッズがあった。今のキティやスヌーピーと同じくらいの自然体だが、持ち主の思い入れはかなりなものだったような気がする。

 高度成長期に入りつつあったとはいえ、海外は「夢の国」だったし、海外製品は「舶来もの」と高級品だったし、品物だってさほどの種類はなかった。そこに金髪の美少女、ふんだんの小花がちりばめられ、レースやリボンや宝石のついたドレスの数々である。女の子の夢の世界なのだ。

 でも彼は、たんにレトロな懐古趣味だけの方ではない。なんと画業50年の今も現役で、新作を発表されている。90年代から21世紀にかけての作品も展示されていたが、もうほとんど「少女の神様」といいたいくらいな、鳥肌ものの完成度である。私に少女魂というものがあるとしたら、絵の中に吸い込まれてしまいそうなほど圧倒された。

 それとともに、高橋真琴というおじいさんの、ピュアで繊細な優しさがまじかに感じられ、それに包まれてとても優しい気持ちになる。まさにふたたび高橋真琴の洗礼を受けたような感じ。「あこがれ」というものを、ふたたび見いだした感じ。

 出口では彼の絵本や絵はがきのみならず、中原淳一の本はまだしも、関連商品としてロマンチックな花柄のあれこれまで並べられていた。さすがに関連商品の棚は閑散としていたけれど、MACOTOグッズを選ぶ女性達の熱気は、ハンパじゃなかった。

 薔薇をかたどったチョコレートが彼の絵が付いたハート型の箱に入った商品なんかは、すでに完売状態。私は冷静さを取り戻すべく「落ち着いて、落ち着いて。家に帰ったら馬車がかぼちゃに戻るから」と売り場をぐるぐる回りながら、自己暗示をかけまくっていた(笑)

 しかし、いま私はやっぱり後悔している。ああ、やっぱり紙の着せ替え人形セット、買っておくべきだったと!
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2009/12/16

タイガーマスクにのめりこむ。  ’70

 必要に迫られて(笑)ウィキペディアで「タイガーマスク」について調べてみた。って、ホントに必要だったのは、アニメの画像だけだったんだけどね、つい出来心で。

 しかし調べてみるものである。子どもの頃に見たアニメのキーポイントを、私はまったく記憶違いしていたことを、40年たってから知ったのだった。もっとも原作とアニメでは違っていたのかもしれないけど。

 世界中から孤児たちを集めて悪役レスラーを養成する「虎の穴」を、どうしてタイガーマスクこと伊達直人は裏切ったのか?という出発点が問題だったのだ。

 「虎の穴」で育てられ反則技を繰り出す覆面レスラーとしてプロレス界にデビューしたら、そのレスラーはファイトマネーを半分「虎の穴」に上納金として収めねばならない規則になっていたらしい。
 伊達直人は上納金を支払った上で、残金を自分が育った孤児院「ちびっこハウス」に寄付していた。
 ところがハウスは思いのほか経済的に逼迫していたので、ファイトマネーの全額を寄付してしまい、上納金を支払わなかったため「裏切り者」となってしまったらしい。

 うーん、リアルだ。金と力がすべてを支配するルールだったんだな、虎の穴は。たしかに悪辣な組織ではあったけれど、当時の暗黙の了解だった「悪役は悪を愛し遵奉する」というのとは、また違う殺伐さだ。

 私はまた、てっきり「反則技を使う悪役レスラー」としての生き方を変更し、クリーンな戦い方を選び直したために「裏切り者」になったのかと思い込んでいた。子供心に「精神的なもの」もしくは「生き方」が原因だったと思っていた訳なんだけど、そうじゃなかったんだ。40年後にして知った衝撃の事実(なのか?)である。

 念のため、夫H氏にも「タイガーマスクが裏切り者になった原因」をきいてみた。すると彼もなんと、私と同意見だったのだ。
「孤児院の子どもたちに恥じない生き方を見せたいから、反則を封印して戦ったからやろ?」

 うーん、やっぱりアニメ版ではそういう設定だったのかなあ? それとも純真なお子様には「金と力」だけが意味をもつ世界って、理解不能なので無意識に読み替えていたのかなあ?

 ところで、私にとってウィキを読む愉しみのひとつは、事物についてのトリビアル話題である。今回はこういうのを見つけて、ミスターXのようにほくそ笑んでしまった↓

テーマ曲は現在も非常に人気が高く、テレビ番組で虎やそれにまつわる事物を題材にしたコーナーがあると、よくBGMとして使用されている。2008年のTBSスーパーサッカー内「ボレーの虎」では、OP曲(オープニング曲「行け!タイガーマスク」)だけでなく、失敗した際にED曲(エンディング曲「みなし児のバラード」)の物悲しいメロディーが流れている。

 これじゃ絶対、失敗は許されないよね。物悲しすぎるぞ。
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2009/9/8

老人と子供のポルカ  ’70

 私が10歳前後にヒットした「老人と子供のポルカ」という歌謡曲がある。おじいちゃんの左卜全(ひだり ぼくぜん)とひまわりキティーズ(劇団ひまわりの子役少女達)のバックコーラスで成立している前代未聞の歌である。

 この歌のことが夫婦間の話題にのぼり、「調べといて」ということだったので、H氏の命により調査してみました。以下はウィキペディアより。

* 作詞・作曲:早川博二
* 1970年2月10日リリース(グラモフォンレコード)
* レコード売上は約40万枚[1]、1970年度オリコン年間第45位。
  * オリコンチャート最高順位 10位

本楽曲リリース当時は、日本の高度経済成長の集大成とも言うべき日本万国博覧会の開催が迫っていた時期だが、その反動として数々の社会問題が重くのしかかった時代でもあった。本楽曲はリズムこそ軽快且つコミカルであるものの、中身は「それらの被害者は老人と子供である」という痛切な叫びが込められたメッセージソングである。


 う〜〜〜ん、あれがメッセージソングだったとは! ジャンルとしては「帰って来たヨッパライ」路線の、コミックソング寄りだと思っていたのにな。それにしても、歌詞が素晴らしい!! まさに前代未聞、空前絶後(笑)
 だって、いきなり

♪ズビズバー、パパパヤー♪

ですよ!!

 次いで、

♪やめてケレ、やめてケレ、やめてケーレ、ゲバゲバ♪

と続くんだから、初めて聞いた若いひとたちは、あっけにとられて呆然とするんじゃなかろうか。なつかしい衝撃(笑撃?)の映像は、こちらです↓
   http://www.youtube.com/watch?v=LZZk0tP49H8

えっと、なんで我家でこの歌が、今頃話題になったかというと、ふと私が

「『老人と子供のポルカ』って、おなか壊してトイレに篭城しているときのバックミュージックにしたら、ぴったり!」

と思いついたからで、そのことをH氏に伝えたら、彼がこの歌を口ずさんで「ほんまやな〜!」と笑いと同意を得たからなのでした。
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