2016/9/17
三つの堂周辺物件 神社仏閣/教会
奥の院に行く前に、食堂や常行堂の横手(裏手)に行って見る。
まずは鐘楼。鐘が剥き出しでなく壁に囲われたタイプのもの。

鎌倉時代後期にできたものらしい。それはたしかに古いですね!

さすがにこんな山中の釣鐘は、戦争中の「供出」対象にはならなかったのかも。よかった、よかった。滋賀県の木之本にある大地蔵菩薩さまでさえ、「供出」を要請されたらしいから、戦争は「信仰」の敵だね。
そういえば酒豪揃いの高知のある村では、氏神様で熱心に戦勝祈願をしたのに負けてしまったので、村人がガッカリしたあまり「たいした神様じゃないから負けたんじゃ」と、鎮守のご神木を切り倒して高値で売り払い、村で酒盛りをした、という「伝説」?もあったっけ。神仏共に、戦争は信仰の敵だね。

他にも法華堂とか、


柏原家墓所とかを見る。


大講堂と食堂の間を通って、奥の院へ。

突き当たりの角に、ちいさな物件がある。なんだろう?

これです、これです↓ 厳重に囲われた古井戸。

ここで弁慶が子ども時代を過ごした(らしい)ので、弁慶ゆかりのものがいろいろと。

僧侶の修行をしているといっても、ずいぶん腕白な子どもたちだったようで。大人たちはずいぶん手を焼いたのでは。それでも大人の手を焼かせるくらいならいいんだけど、まさかの伽藍焼失に発展するとは(大汗)

でもまあ、「伝説」ですから。滋賀県にも弁慶にちなんだ伝説はあるし、義経と落ち延びた「みちのく」にも。有名人の弁慶はあちこちで伝説になっていて、お土産物屋さんのネタにされているみたい。千年後も、弁慶ブランドは人気なのである。
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まずは鐘楼。鐘が剥き出しでなく壁に囲われたタイプのもの。

鎌倉時代後期にできたものらしい。それはたしかに古いですね!

さすがにこんな山中の釣鐘は、戦争中の「供出」対象にはならなかったのかも。よかった、よかった。滋賀県の木之本にある大地蔵菩薩さまでさえ、「供出」を要請されたらしいから、戦争は「信仰」の敵だね。
そういえば酒豪揃いの高知のある村では、氏神様で熱心に戦勝祈願をしたのに負けてしまったので、村人がガッカリしたあまり「たいした神様じゃないから負けたんじゃ」と、鎮守のご神木を切り倒して高値で売り払い、村で酒盛りをした、という「伝説」?もあったっけ。神仏共に、戦争は信仰の敵だね。

他にも法華堂とか、


柏原家墓所とかを見る。


大講堂と食堂の間を通って、奥の院へ。

突き当たりの角に、ちいさな物件がある。なんだろう?

これです、これです↓ 厳重に囲われた古井戸。

ここで弁慶が子ども時代を過ごした(らしい)ので、弁慶ゆかりのものがいろいろと。

僧侶の修行をしているといっても、ずいぶん腕白な子どもたちだったようで。大人たちはずいぶん手を焼いたのでは。それでも大人の手を焼かせるくらいならいいんだけど、まさかの伽藍焼失に発展するとは(大汗)

でもまあ、「伝説」ですから。滋賀県にも弁慶にちなんだ伝説はあるし、義経と落ち延びた「みちのく」にも。有名人の弁慶はあちこちで伝説になっていて、お土産物屋さんのネタにされているみたい。千年後も、弁慶ブランドは人気なのである。

2016/9/16
三つの堂(三之堂)・食堂(じきどう)・常行堂 神社仏閣/教会
食堂はごくシンプル、

ここには僧侶さんが受付に座る授与品売り場もあり、大きな弁慶の人形が見えをきっていた。

堂内の壁際には、寺院の古くて大きな鬼瓦が、ずらりと並んでいた。鬼瓦好きの私は欣喜雀躍して、つぶさに鑑賞する。
少女マンガのように、つぶらな瞳の鬼瓦にミュンミュン(ミスタッチだが、なんとなくフィットするのでこのまま)する。見たこと無いぞ、こんなの!
で、鬼瓦だけをみて食堂を去った。しかし、あとから調べて気づいたのだが、2階に仏像やその他寺宝の展示がされているそうではないか!!
うかつ!! おろか!!
と1ヶ月以上経ってから、自分を責めているのである。

大好きな古式ゆかしい蔀戸(しとみど)を見て、わくわく。
ところで、食堂では写経机が並んでいた。ということは、写経もできるらしい。こんな場所で写経するなんてサイコーではないですか。いや、私はしないけどね。まず、足の故障で正座ができないも〜ん。

鬼瓦にひきつづき、授与品をチェック。すると、「いまなら期間限定で、日本で唯一、チベット語の御朱印を、開山堂にてお分けしております。」という張り紙が目に入った。
仏教系の大学図書館で働いていた事もあったので、サンスクリットやチベット語を見た事はあった。でもそれが御朱印となると、突然、物欲のとりことなるのは、どうしたわけであろうか。明治時代までは女人禁制だったらしい、山岳の聖なる結界にいるというのに、である。世俗の煩悩は、そうたやすくは剥がれ落ちるものではないらしい。
食堂と常行堂の屋根も、見事に重なっていた。こちらは「コの字型」の内側からみたところ↓

そしてこちらは外側から見たところ↓ 間にみえる向こうの建物は、大講堂。

常行堂には上がれないので、外側からぼんやり眺めていた。

↑これはサイドからみた常行堂。

↑これは正面からみた常行堂。

↑ロングに引いてみた常行堂。
そうそう、鬼瓦も採取しなきゃね。

こちらはいかついが、

こちらは剽軽者。

などと眺めているうちに、一般人は上がれないはずの常行堂から、わらわらと「動きやすい服装」のおばさまたちがでてきて、堂の縁側に於いて、いっせいにヨガマットを敷き出したではないか!

えええええ〜っ!!? お堂の縁側でヨガ!? それも国指定重要文化財の縁側ですよ、あなた!
たぶんシルバ―ヨガ教室が、常行堂を予約されていたのだろう。まあ、たしかにヨガは修行法のひとつでもあるのだけど・・・いや、おばさまたちがお寺の縁側で、一斉にヨガマットを敷く図、というのは、息を呑むほどシュールでしたよ。自分が今どこにいるのかを、見失いそうなくらいでした。
ちなみに常行堂は、1453年頃に再建されたもので、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行を行う場所なのだ。
この素晴らしい三つの堂のロケーションは、世間から放っておかれるはずもなく、映画「ラストサムライ」、NHK大河ドラマ「武蔵」「軍師官兵衛」でロケ地となった場所らしい。ワールドワイドに使われた場所なのだ。今思い出したが、そういえば食堂には、鬼瓦とともに、たくさんのスチールパネルが飾られていたのだった。
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ここには僧侶さんが受付に座る授与品売り場もあり、大きな弁慶の人形が見えをきっていた。

堂内の壁際には、寺院の古くて大きな鬼瓦が、ずらりと並んでいた。鬼瓦好きの私は欣喜雀躍して、つぶさに鑑賞する。
少女マンガのように、つぶらな瞳の鬼瓦にミュンミュン(ミスタッチだが、なんとなくフィットするのでこのまま)する。見たこと無いぞ、こんなの!
で、鬼瓦だけをみて食堂を去った。しかし、あとから調べて気づいたのだが、2階に仏像やその他寺宝の展示がされているそうではないか!!
うかつ!! おろか!!
と1ヶ月以上経ってから、自分を責めているのである。

大好きな古式ゆかしい蔀戸(しとみど)を見て、わくわく。
ところで、食堂では写経机が並んでいた。ということは、写経もできるらしい。こんな場所で写経するなんてサイコーではないですか。いや、私はしないけどね。まず、足の故障で正座ができないも〜ん。

鬼瓦にひきつづき、授与品をチェック。すると、「いまなら期間限定で、日本で唯一、チベット語の御朱印を、開山堂にてお分けしております。」という張り紙が目に入った。
仏教系の大学図書館で働いていた事もあったので、サンスクリットやチベット語を見た事はあった。でもそれが御朱印となると、突然、物欲のとりことなるのは、どうしたわけであろうか。明治時代までは女人禁制だったらしい、山岳の聖なる結界にいるというのに、である。世俗の煩悩は、そうたやすくは剥がれ落ちるものではないらしい。
食堂と常行堂の屋根も、見事に重なっていた。こちらは「コの字型」の内側からみたところ↓

そしてこちらは外側から見たところ↓ 間にみえる向こうの建物は、大講堂。

常行堂には上がれないので、外側からぼんやり眺めていた。

↑これはサイドからみた常行堂。

↑これは正面からみた常行堂。

↑ロングに引いてみた常行堂。
そうそう、鬼瓦も採取しなきゃね。

こちらはいかついが、

こちらは剽軽者。

などと眺めているうちに、一般人は上がれないはずの常行堂から、わらわらと「動きやすい服装」のおばさまたちがでてきて、堂の縁側に於いて、いっせいにヨガマットを敷き出したではないか!

えええええ〜っ!!? お堂の縁側でヨガ!? それも国指定重要文化財の縁側ですよ、あなた!
たぶんシルバ―ヨガ教室が、常行堂を予約されていたのだろう。まあ、たしかにヨガは修行法のひとつでもあるのだけど・・・いや、おばさまたちがお寺の縁側で、一斉にヨガマットを敷く図、というのは、息を呑むほどシュールでしたよ。自分が今どこにいるのかを、見失いそうなくらいでした。
ちなみに常行堂は、1453年頃に再建されたもので、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行を行う場所なのだ。
この素晴らしい三つの堂のロケーションは、世間から放っておかれるはずもなく、映画「ラストサムライ」、NHK大河ドラマ「武蔵」「軍師官兵衛」でロケ地となった場所らしい。ワールドワイドに使われた場所なのだ。今思い出したが、そういえば食堂には、鬼瓦とともに、たくさんのスチールパネルが飾られていたのだった。

2016/9/15
三つの堂(三之堂)・大講堂 神社仏閣/教会
最初この場所を見たときの、感動や驚きを写真でお伝えできないのが残念だ。

建物のダイナミックさと巨大さ、それらに囲まれた空間のえもいわれぬ解放感に、しばらく呆然と立ち尽くしていた。その後、本多家墓所を見たのだ。
三つの堂の一つ、右手には大講堂。

現在、中はがらんどうだが、建築物としては大迫力。

扉の、風雪に耐えた味わいにうっとり。

古い木造建築の素晴らしさを、見上げながらつくづくと味わう。

三つの堂の、隣同士の建物の、屋根が重なる部分が、とりわけ不思議で面白い。見飽きないわ〜♡

大講堂の屋根の下に、食堂(じきどう)の屋根が入り込んでいる。

人と大講堂の大きさを比較すると、少しはわかっていただけるかな? ↓

大講堂の横手は、弁慶ゆかりのあれこれや、奥の院への道に続いている。それについてはまた後ほど。

大講堂のドキドキするような建築美に陶酔しつつ、となりの食堂へ。

このときにはまだ、まさか自分が「御朱印」をいただきに行くとは、夢にも思っていたかった。まさに一寸先のことはわからない。
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建物のダイナミックさと巨大さ、それらに囲まれた空間のえもいわれぬ解放感に、しばらく呆然と立ち尽くしていた。その後、本多家墓所を見たのだ。

三つの堂の一つ、右手には大講堂。

現在、中はがらんどうだが、建築物としては大迫力。

扉の、風雪に耐えた味わいにうっとり。

古い木造建築の素晴らしさを、見上げながらつくづくと味わう。

三つの堂の、隣同士の建物の、屋根が重なる部分が、とりわけ不思議で面白い。見飽きないわ〜♡

大講堂の屋根の下に、食堂(じきどう)の屋根が入り込んでいる。

人と大講堂の大きさを比較すると、少しはわかっていただけるかな? ↓

大講堂の横手は、弁慶ゆかりのあれこれや、奥の院への道に続いている。それについてはまた後ほど。

大講堂のドキドキするような建築美に陶酔しつつ、となりの食堂へ。

このときにはまだ、まさか自分が「御朱印」をいただきに行くとは、夢にも思っていたかった。まさに一寸先のことはわからない。


2016/9/14
本多家廟屋 神社仏閣/教会
「三つの堂」の入口横手、大講堂の東南の隅に、土塀で囲まれた物件。

姫路城城主・本多家の墓所、「本多家廟屋」だ。江戸時代以降のもの。

丸瓦は、本多家の家紋。「本多立ち葵」。

そのルーツは、京都賀茂神社の神草である「フタバアオイ」からといわれている。 本多家の先祖・中務光秀が、賀茂神社の社職であったことから、本多家の家紋に採用されたようだ。

廟屋五棟と本多忠刻らの墓碑が並んでいる。

お堂に入ったお墓って、初めて見ました! しかも山の上! 姫路城のお殿様は違うねー。とはいえ、姫路城のお殿様は、いろんな事情があり、いくつかの家系が出入りしているので、本多家が代々の姫路城城主というわけではないらしい。娶った姫君も家康の孫娘(一部信長の血族も)だったりして、格式の高い家柄だ。

五棟の廟屋は、江戸初期から中期にわたる廟屋の建築として県下でも例のない珍しいものだそうです。(兵庫県指定文化財) そりゃそうでしょうとも。
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姫路城城主・本多家の墓所、「本多家廟屋」だ。江戸時代以降のもの。

丸瓦は、本多家の家紋。「本多立ち葵」。

そのルーツは、京都賀茂神社の神草である「フタバアオイ」からといわれている。 本多家の先祖・中務光秀が、賀茂神社の社職であったことから、本多家の家紋に採用されたようだ。

廟屋五棟と本多忠刻らの墓碑が並んでいる。

お堂に入ったお墓って、初めて見ました! しかも山の上! 姫路城のお殿様は違うねー。とはいえ、姫路城のお殿様は、いろんな事情があり、いくつかの家系が出入りしているので、本多家が代々の姫路城城主というわけではないらしい。娶った姫君も家康の孫娘(一部信長の血族も)だったりして、格式の高い家柄だ。

五棟の廟屋は、江戸初期から中期にわたる廟屋の建築として県下でも例のない珍しいものだそうです。(兵庫県指定文化財) そりゃそうでしょうとも。


2016/9/13
三之堂をめざす。 神社仏閣/教会
次は「三つの堂」(三之堂)を目指す。三つの堂とは、その名のとおり「大講堂」「常行堂」「食堂(じきどう)」がコの字型に並ぶ伽藍だ。

摩尼殿の裏手を歩いて、

石畳の細い上り坂をあがり、

昨日の台風の落とし物を見つける。苔むして年季の入った枝も、ぽっきりと転がっていた。

こちらは、そうそう「ぽっきり」とはならなそうな大木だ。

このような大木が、ところどころにあった。

少し明るくひらけた場所に出ると、大仏様出現。

野外で三十三体の観音様を拝したあとは、阿弥陀様でゴールということなのでしょうか。

蓮ではなく、岩に埋め込まれたドラム缶風呂の上にいらっしゃるようなシュールな光景に、思わず足を止めてしまう。
ふたたび樹々の間の山道を歩く。

千年杉に遭遇する。「せんねん灸」にあらず。

見上げる。ド迫力だ。でも比較するものがないと、判りづらいですよね。

はいこんな感じです。
しばらくすると、こんな看板に出会う。「すみれも」?

ツッコミどころがありすぎる!
水分のほとんどない場所に棲息する、アオノリと同じ仲間の緑藻?? スミレの匂いがすることに由来して名付けられたのに、「そのような匂いはしない」?? この植物に、「『なんでやねん!』大賞in書写山」を授与したい。

と、ツッコんでいる間に「三つの堂」に到着。思わず「わああ〜!」と声に出るスケールの大きさだ。
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摩尼殿の裏手を歩いて、

石畳の細い上り坂をあがり、

昨日の台風の落とし物を見つける。苔むして年季の入った枝も、ぽっきりと転がっていた。

こちらは、そうそう「ぽっきり」とはならなそうな大木だ。

このような大木が、ところどころにあった。

少し明るくひらけた場所に出ると、大仏様出現。

野外で三十三体の観音様を拝したあとは、阿弥陀様でゴールということなのでしょうか。

蓮ではなく、岩に埋め込まれたドラム缶風呂の上にいらっしゃるようなシュールな光景に、思わず足を止めてしまう。
ふたたび樹々の間の山道を歩く。

千年杉に遭遇する。「せんねん灸」にあらず。

見上げる。ド迫力だ。でも比較するものがないと、判りづらいですよね。

はいこんな感じです。
しばらくすると、こんな看板に出会う。「すみれも」?

ツッコミどころがありすぎる!
水分のほとんどない場所に棲息する、アオノリと同じ仲間の緑藻?? スミレの匂いがすることに由来して名付けられたのに、「そのような匂いはしない」?? この植物に、「『なんでやねん!』大賞in書写山」を授与したい。

と、ツッコんでいる間に「三つの堂」に到着。思わず「わああ〜!」と声に出るスケールの大きさだ。


2016/9/12
摩尼殿(まにでん) 神社仏閣/教会
石の道標。諸堂(三つの堂)と奥の院の開山堂は左の道へ。

丸屋根の石灯籠は、不思議な造形。

こちらは一般的な石灯籠。

屋根の苔がきれいだ。蟲文庫で田中さんと苔の話をして以来、とても気になる。でもこれ以上、苔に深入りしない方がいいのでは、とわずかな私の理性がささやきかける。

振り返れば、さきほどの石橋。隣にある自販機横の建物は、「はづき茶屋」という茶店。のちほどここでゴハンにしよう。

憧れの舞台がある摩尼殿を見上げ、入る前からうっとり。寺院の舞台って、ほんとに気持ちのいい場所だ。いや、お寺に限らず、山中の舞台はいい。たとえば「大山崎山荘美術館」の広いテラスとかも。

それに造形だって、なんともいえないほどきれいだ。

実は大正時代に焼失してしまったのを、昭和を代表する建築家、武田五一が前身を踏襲した形で資料を参考に設計し、棟梁の伊藤平左衛門が請け負ったものだ。再建されて本当によかった。

摩尼殿の近くにはこのような石像物がいくつもあり、それぞれに小石が積み上げられていた。私もそれに倣ってみる(ミーハーだ)

石段をあがる。

見事な彫り物だ。

なるほど如意輪観音さまがご本尊なので、如意輪堂とも言うわけね。

りっぱな龍のついた手水所?

屋根と戸の間が、息をのむほど重厚に重ねられている。寺院建築のボレロ。

あがらせていただきます(拝)

写真では伝わらないかもしれないけど、下から見上げても迫力だ。

中央をはずして右手はこんな感じ。さあでは、上にまいります。

緑がキラキラと輝いて、うっとりとため息。

わあい、はづき茶屋が、あんなにちいさく見えます〜♪ すっかりハイテンション。

摩尼殿の舞台です。そんなに広くはないけど、眺めは絶景!!

寺院の正面上がり口の屋根って、こんなだっけ? 凄く変則な屋根の造りなので、設計も工事自体も非常に難しかったのでは。と、いまさらながら気づいた。

本堂の内陣は、格子ごしなので、よく見えず。ご本尊は秘仏なので「お前立ち」(ご本尊のレプリカ)の如意輪さまがいらっしゃったけど、遠くて良く見えず。いろんな物販もあったけど、最近めっきり物欲が衰えてしまい(ほんまか!?)お買い物はなし。

では山と摩尼殿の間の細い道をたどって、三つの堂をめざそう。
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丸屋根の石灯籠は、不思議な造形。

こちらは一般的な石灯籠。

屋根の苔がきれいだ。蟲文庫で田中さんと苔の話をして以来、とても気になる。でもこれ以上、苔に深入りしない方がいいのでは、とわずかな私の理性がささやきかける。

振り返れば、さきほどの石橋。隣にある自販機横の建物は、「はづき茶屋」という茶店。のちほどここでゴハンにしよう。

憧れの舞台がある摩尼殿を見上げ、入る前からうっとり。寺院の舞台って、ほんとに気持ちのいい場所だ。いや、お寺に限らず、山中の舞台はいい。たとえば「大山崎山荘美術館」の広いテラスとかも。

それに造形だって、なんともいえないほどきれいだ。

実は大正時代に焼失してしまったのを、昭和を代表する建築家、武田五一が前身を踏襲した形で資料を参考に設計し、棟梁の伊藤平左衛門が請け負ったものだ。再建されて本当によかった。

摩尼殿の近くにはこのような石像物がいくつもあり、それぞれに小石が積み上げられていた。私もそれに倣ってみる(ミーハーだ)

石段をあがる。

見事な彫り物だ。

なるほど如意輪観音さまがご本尊なので、如意輪堂とも言うわけね。

りっぱな龍のついた手水所?

屋根と戸の間が、息をのむほど重厚に重ねられている。寺院建築のボレロ。

あがらせていただきます(拝)

写真では伝わらないかもしれないけど、下から見上げても迫力だ。

中央をはずして右手はこんな感じ。さあでは、上にまいります。

緑がキラキラと輝いて、うっとりとため息。

わあい、はづき茶屋が、あんなにちいさく見えます〜♪ すっかりハイテンション。

摩尼殿の舞台です。そんなに広くはないけど、眺めは絶景!!

寺院の正面上がり口の屋根って、こんなだっけ? 凄く変則な屋根の造りなので、設計も工事自体も非常に難しかったのでは。と、いまさらながら気づいた。

本堂の内陣は、格子ごしなので、よく見えず。ご本尊は秘仏なので「お前立ち」(ご本尊のレプリカ)の如意輪さまがいらっしゃったけど、遠くて良く見えず。いろんな物販もあったけど、最近めっきり物欲が衰えてしまい(ほんまか!?)お買い物はなし。

では山と摩尼殿の間の細い道をたどって、三つの堂をめざそう。

2016/9/11
摩尼殿(まにでん)まで 神社仏閣/教会

いい感じに古びた、立派な塀が見えて来た。

こういう古い道標の文字を読めないのがクヤシー。そういう「学」があればなあ〜と、ないものねだり。

あ、塔頭寺院だ。

中興の祖のお坊様のお住まいだったらしい。お寺の名前は「十妙院」。

そもそも、わずか16歳で旅立ってしまった少女のために建てられたらしい。そこには、どんなストーリーがあったのでしょうね。

石垣の苔むしかたが、いかにもの昔を思わせる。

文字は消えかかっているけど、「鳥獣保護区」の看板。

「害鳥獣捕獲のハンターといえども、無断入山を禁じる」。つまり、ひとことお寺さんにお伝えしておけば、殺生も大丈夫ということなのだろうか? 日本語はむずかしい。

ステンレスの手すりのカーブがお見事! 作るの難しかったでしょうけど、曲線が樹木と不思議にマッチングしている。ある意味、アートかも。

「笠塔婆」というものらしい。鎌倉時代の石碑。

笠塔婆にズーム!!

石から掘り出された阿弥陀さま。

おおっ、アーチの古い石橋が。ここから先は神聖な場所であることを示す橋だ。名前は「湯屋橋」だ。えっ?「湯屋」?

いきなりお風呂場だったなんて! まるで「千と千尋」じゃないの。それにしても、さすがの書写山も荒廃したことがあったのね。

橋を渡ると、威風堂々と佇む「摩尼殿(まにでん)」が現れる。

摩尼とは梵語の如意のこと。天禄元年(970)創建。
本尊は六臂如意輪観世音菩薩で、この堂の創建前、天人が桜樹を礼拝するのを見て、上人が根のあるままの生木に観音像を刻まれた。そのために岩山の中腹に舞台造りの建物となった。本尊六臂如意輪観世音菩薩は、1月18日の鬼追いの日に開扉される。
国指定の重要文化財四天王立像もここに安置されている。
(書写山のHPより)

2016/9/10
寿量院 神社仏閣/教会
仁王門をくぐっても、建物は見えずまたしても道が続いている。

これが書写山。書写山全体が境内ともいえる、みたいなことをロープウェイの案内で小耳に挟んだような気がするが、たしかにそのとおりだ。
仁王門をくぐって、最初に右手に見えるのが「寿量院」だ。

古くは、「無量寿院」と呼ばれ、承安四年(1174)には後白河法皇がここに七日間お籠りになり、観世音菩薩の加護を願われたという。


現在の建物は江戸中期の建物で、蔀戸(しとみど)や中門などの寝殿造りの古い形式を備え、内部は床や違い棚のついた書院造りになっているそうだが、入れない。仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを合わせた構造で、「十妙院」と共に「圓教寺型」と言われる独特の構造を持った塔頭なのだが、入れない。
なぜなら。

ということで、姫路駅ホームの立ち食い蕎麦でしのごうというセコい了簡で、精進料理をご予約なさっていない私は、入れないのである。

しかし精進料理ご予約の方が入る道の入口には、案内を兼ねた魚板があり、これがなかなか味わい深いものだった。禅の仏教美術は、豪放磊落なシンプルさを旨とするイメージ、もしくはヒネリのきいた「のほほん」なのだが、これは禅というより、「民藝」の味わいがあるような気がする。

朴訥としているのに、プリミティヴな荒々しさが、魚の口元に込められている。はげしく歯ぎしりをしているかのような口元をみていると、「まさか精進料理なのに、刺身にされるのでは!?」という疑念が、私の「寿量院に入れない悔し紛れ」を交えて湧き出すようもみえる。じっくりと民藝魚板を鑑賞してから、次に向かう。

下り坂に入り、嬉しい気持ちで前方を見たら、驚くべき光景が目に入った。
犬連れ!? しかもトイプードル!?

こちらにお住まいの方なのか?
それとも山麓にお住まいで、ここまでロープウェイに乗って、犬の散歩なのか? もしかすると、犬ひとりに留守番をさせるわけにもいかず、仕方なしに同伴旅行なのかもしれないのだが・・・シュールな光景だ。書写山、恐るべし!
だが、書写山でのシュールな光景は、今後もまた目にすることになるのだが、それはまた後日に。書写山は、まさに面白過ぎるワンダーランドだ。
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これが書写山。書写山全体が境内ともいえる、みたいなことをロープウェイの案内で小耳に挟んだような気がするが、たしかにそのとおりだ。

仁王門をくぐって、最初に右手に見えるのが「寿量院」だ。

古くは、「無量寿院」と呼ばれ、承安四年(1174)には後白河法皇がここに七日間お籠りになり、観世音菩薩の加護を願われたという。


現在の建物は江戸中期の建物で、蔀戸(しとみど)や中門などの寝殿造りの古い形式を備え、内部は床や違い棚のついた書院造りになっているそうだが、入れない。仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とを合わせた構造で、「十妙院」と共に「圓教寺型」と言われる独特の構造を持った塔頭なのだが、入れない。
なぜなら。

ということで、姫路駅ホームの立ち食い蕎麦でしのごうというセコい了簡で、精進料理をご予約なさっていない私は、入れないのである。

しかし精進料理ご予約の方が入る道の入口には、案内を兼ねた魚板があり、これがなかなか味わい深いものだった。禅の仏教美術は、豪放磊落なシンプルさを旨とするイメージ、もしくはヒネリのきいた「のほほん」なのだが、これは禅というより、「民藝」の味わいがあるような気がする。

朴訥としているのに、プリミティヴな荒々しさが、魚の口元に込められている。はげしく歯ぎしりをしているかのような口元をみていると、「まさか精進料理なのに、刺身にされるのでは!?」という疑念が、私の「寿量院に入れない悔し紛れ」を交えて湧き出すようもみえる。じっくりと民藝魚板を鑑賞してから、次に向かう。

下り坂に入り、嬉しい気持ちで前方を見たら、驚くべき光景が目に入った。
犬連れ!? しかもトイプードル!?

こちらにお住まいの方なのか?
それとも山麓にお住まいで、ここまでロープウェイに乗って、犬の散歩なのか? もしかすると、犬ひとりに留守番をさせるわけにもいかず、仕方なしに同伴旅行なのかもしれないのだが・・・シュールな光景だ。書写山、恐るべし!
だが、書写山でのシュールな光景は、今後もまた目にすることになるのだが、それはまた後日に。書写山は、まさに面白過ぎるワンダーランドだ。

2016/9/9
観音様と山登り 神社仏閣/教会
ということで、ロープーウェイで山に着いてからも、山道を歩く歩く!
でも山中のフェトンチッドで満たされ、ツクツクボウシとアブラゼミの混声しぐれの中なので、気分は爽快。

鐘楼が見える。

この看板では、さもすぐに到着するみたいな感じだけど、私は道草三昧のせいもあり、40分以上かかりました(汗)

帰りに鐘を撞いてらっしゃるご夫婦がいらして、梵鐘の音をきくことができた。

あれにみえるのは、もしかして・・・。

大阪の葛井寺(ふじいでら)の十一面千手千眼観音さま! お懐かしや! 紙芝居のオジサンにもお会いできた、思い出深い観音様だ。

うわあ、長谷寺の観音様だ!! やはりあのスケール感がないと、漫画っぽい頭身になっちゃうのかなあ。でも再会できて、とてもうれしい!

三室戸寺の観音さまは、たったいま颯爽とおでまし感がすごい。このお方にも、いずれお会いしに行かねば。

醍醐寺の如意輪観音様! お懐かしや、今もお慕い申し上げております。

おおお〜! 石山寺の観音様は、今年の33年に一度のご尊顔を拝するチャンスを逃さないようにしないと。シンプルな光背も古代めいていい。

三井寺の如意輪様も! ビッグネームの連続に、レプリカといえどドキドキするなあ。

このドキドキ感は、山の中の木立の間におられるという環境の素晴らしさにも起因するのだろう。観音トレイルのあまりの素敵さに、上り坂も辛くはない。ゆっくり登っているのと、道が整備されているおかげでもあるのだけど。

姫路を一望できる視界の開けた場所で、ちょっと休憩し、展望を満喫する。

ふたたび歩き出す。ほどなく建築物が見え隠れしてきた。

ついに山門までたどり着く。いよいよ境内に入るのだ。

仁王様はいらっしゃらないけど、代わりに、お洒落なモノトーンの草鞋が掛かっていた。草鞋は仁王様の象徴だ。
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でも山中のフェトンチッドで満たされ、ツクツクボウシとアブラゼミの混声しぐれの中なので、気分は爽快。

鐘楼が見える。

この看板では、さもすぐに到着するみたいな感じだけど、私は道草三昧のせいもあり、40分以上かかりました(汗)

帰りに鐘を撞いてらっしゃるご夫婦がいらして、梵鐘の音をきくことができた。

あれにみえるのは、もしかして・・・。

大阪の葛井寺(ふじいでら)の十一面千手千眼観音さま! お懐かしや! 紙芝居のオジサンにもお会いできた、思い出深い観音様だ。

うわあ、長谷寺の観音様だ!! やはりあのスケール感がないと、漫画っぽい頭身になっちゃうのかなあ。でも再会できて、とてもうれしい!

三室戸寺の観音さまは、たったいま颯爽とおでまし感がすごい。このお方にも、いずれお会いしに行かねば。

醍醐寺の如意輪観音様! お懐かしや、今もお慕い申し上げております。

おおお〜! 石山寺の観音様は、今年の33年に一度のご尊顔を拝するチャンスを逃さないようにしないと。シンプルな光背も古代めいていい。

三井寺の如意輪様も! ビッグネームの連続に、レプリカといえどドキドキするなあ。

このドキドキ感は、山の中の木立の間におられるという環境の素晴らしさにも起因するのだろう。観音トレイルのあまりの素敵さに、上り坂も辛くはない。ゆっくり登っているのと、道が整備されているおかげでもあるのだけど。

姫路を一望できる視界の開けた場所で、ちょっと休憩し、展望を満喫する。

ふたたび歩き出す。ほどなく建築物が見え隠れしてきた。

ついに山門までたどり着く。いよいよ境内に入るのだ。

仁王様はいらっしゃらないけど、代わりに、お洒落なモノトーンの草鞋が掛かっていた。草鞋は仁王様の象徴だ。


2016/9/8
山門をめざす。 神社仏閣/教会
では、いざ、ロープウェイへ。

ロープウェイ、かなり久しぶり。コンスタントに利用者がいるらしく、15分間隔で便がある。そんなに待たなくても大丈夫。

案内図をみても、円教寺の境内は広い。山中のあちこちに伽藍があるところなんて、たしかに比叡山みたいだわ。
ところで「TV見仏記」で、みうらじゅんさんが驚いていらしたが、テープで説明や案内が主流のロープーウェイに、なんと女性のガイドさんが乗り込んで案内してくださるのだ!「テープじゃないんですね!」というみうらさんに、控えめに、でも「もちろんですとも!」と目で語り、自信にあふれた微笑みを返していた制服姿のガイドさんが印象深かった。

もちろん、本日もバスガイドさんのような流暢にあたたかい肉声の案内で、4分間の空中散歩は充実したのだった。

ロープウェイは、「軍師官兵衛」のキャラクターらしい。

さて、この先、山を徒歩で登るか、車道を通ってマイクロバスで行くかという運命の分かれ道がある。さっきまでは軟弱にマイクロバスで行こうかと考えていたのだが、「歩けば20分かかります」という係員さんの説明に、20分くらいなら、道の両側に点在される「写し」の観音様を見つつ歩くのもアリだろう、と結論する。

石碑の「一隅を照らす」は、
「一隅(いちぐう)を照らす、これ則(すなわ)ち国宝なり」
という言葉からの一節だ。
天台宗の開祖である最澄の『山家学生式』(さんげがくしょうしき)冒頭部分に記載されている。「それぞれの立場で、精一杯努力する人はみんな、何者にも代えがたい大事な国の宝だ」という意味で、仏教ミッションスクールに行った事のある人なら、たぶん耳にしたことがあるはず、というくらい有名な言葉だ。

書写山と和泉式部についての物語が、連続看板となって続いていた。
和泉式部は平安時代中期の歌人。越前守 三十六歌仙のひとり。恋多き女性としても有名。
和泉式部は 最初の夫、和泉守橘道貞 (みちさだ)と離婚し、その後 愛人の皇子二人が 次いで最初の夫の娘、小式部内侍(こしきぶ の ないし)が 亡くなり、仏に救いを求めた。名僧として名高い播磨の国の書写山円教寺の性空( しょうくう )上人に、仏の教えを乞おうと京の都を立ち、書写山に来たらしい。しかし寺の門は閉ざされ、上人に会うことが出来ない。
和泉式部は「暗きより 暗き道に 入りぬべき、遙かに照らせ 山の端の月」という歌をしたため、下山しようとする。上人は この歌に感心し、「日は入りて 月まだ出ぬたそがれに 掲げて照らす法( のり )の灯(とぼしび )」
と返歌して 門を開け、和泉式部に面会したという伝説がある。境内には「和泉式部の歌塚」もあるらしい。
参道途中には西国三十三ヶ所各寺院の本尊のレプリカが出迎えてくれる、と予習した中に書いていたが、レプリカとはいえ、丁寧に作ってある。雨ざらしなのに、状態も良好。
やはり1番目にエントリーされるのは、当山の御本尊、六臂如意輪観世音菩薩さまだ。この堂の創建前、天人が桜樹を礼拝するのを見て、性空上人が根のあるままの生木に観音像を刻まれたため、岩山の中腹に舞台造りの建物となったそうだ。六臂如意輪観世音菩薩は、1月18日の鬼追いの日に開扉される。
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ロープウェイ、かなり久しぶり。コンスタントに利用者がいるらしく、15分間隔で便がある。そんなに待たなくても大丈夫。

案内図をみても、円教寺の境内は広い。山中のあちこちに伽藍があるところなんて、たしかに比叡山みたいだわ。
ところで「TV見仏記」で、みうらじゅんさんが驚いていらしたが、テープで説明や案内が主流のロープーウェイに、なんと女性のガイドさんが乗り込んで案内してくださるのだ!「テープじゃないんですね!」というみうらさんに、控えめに、でも「もちろんですとも!」と目で語り、自信にあふれた微笑みを返していた制服姿のガイドさんが印象深かった。

もちろん、本日もバスガイドさんのような流暢にあたたかい肉声の案内で、4分間の空中散歩は充実したのだった。

ロープウェイは、「軍師官兵衛」のキャラクターらしい。

さて、この先、山を徒歩で登るか、車道を通ってマイクロバスで行くかという運命の分かれ道がある。さっきまでは軟弱にマイクロバスで行こうかと考えていたのだが、「歩けば20分かかります」という係員さんの説明に、20分くらいなら、道の両側に点在される「写し」の観音様を見つつ歩くのもアリだろう、と結論する。

石碑の「一隅を照らす」は、
「一隅(いちぐう)を照らす、これ則(すなわ)ち国宝なり」
という言葉からの一節だ。
天台宗の開祖である最澄の『山家学生式』(さんげがくしょうしき)冒頭部分に記載されている。「それぞれの立場で、精一杯努力する人はみんな、何者にも代えがたい大事な国の宝だ」という意味で、仏教ミッションスクールに行った事のある人なら、たぶん耳にしたことがあるはず、というくらい有名な言葉だ。

書写山と和泉式部についての物語が、連続看板となって続いていた。
和泉式部は平安時代中期の歌人。越前守 三十六歌仙のひとり。恋多き女性としても有名。
和泉式部は 最初の夫、和泉守橘道貞 (みちさだ)と離婚し、その後 愛人の皇子二人が 次いで最初の夫の娘、小式部内侍(こしきぶ の ないし)が 亡くなり、仏に救いを求めた。名僧として名高い播磨の国の書写山円教寺の性空( しょうくう )上人に、仏の教えを乞おうと京の都を立ち、書写山に来たらしい。しかし寺の門は閉ざされ、上人に会うことが出来ない。
和泉式部は「暗きより 暗き道に 入りぬべき、遙かに照らせ 山の端の月」という歌をしたため、下山しようとする。上人は この歌に感心し、「日は入りて 月まだ出ぬたそがれに 掲げて照らす法( のり )の灯(とぼしび )」
と返歌して 門を開け、和泉式部に面会したという伝説がある。境内には「和泉式部の歌塚」もあるらしい。

参道途中には西国三十三ヶ所各寺院の本尊のレプリカが出迎えてくれる、と予習した中に書いていたが、レプリカとはいえ、丁寧に作ってある。雨ざらしなのに、状態も良好。
やはり1番目にエントリーされるのは、当山の御本尊、六臂如意輪観世音菩薩さまだ。この堂の創建前、天人が桜樹を礼拝するのを見て、性空上人が根のあるままの生木に観音像を刻まれたため、岩山の中腹に舞台造りの建物となったそうだ。六臂如意輪観世音菩薩は、1月18日の鬼追いの日に開扉される。

2016/8/29
阿智神社を目指す。 神社仏閣/教会
さきほど雨宿りしたアーケードから見た阿智神社が、なんとはなしに気になる。

すっかり晴れ渡った今も、誰もいないけど、思い切って階段をあがってみる。

大岩のご神体?の前に、ちいさな社が。なになに、御祭神は「八意志兼神(やごころおもいかねのかみ)」さま。初めて知る神様かも。

八百万の神のなかで、最も思慮深く、知恵と知識を兼ね備えた、企画開発の神。御神徳のなかに、「痴呆除」の文字が私の中でひときわ燦然と輝き出す。これはお参りしとかなくては! 将来ではなく、いますぐ必要!
でも登っても登っても、どんどん寂しくなるばかり。残念だけど、夕方だし諦めてお寺の方向へ右折。

りっぱな鐘楼を仰いで、その由来などを読む。

別院というのはよく聞くけれど、別格本山というのは初めて。

別格本山「観龍寺」。以下の説明はウィキペディアより。
寛和元年(985年)尭勢津師により現在の倉敷市西岡に慈照院(西安寺)の塔頭として開創。当時は北斗山宝積院と称していた。
室町時代に鶴形山の麓、現在の駐車場の場所に移転し、寛永元年(1624年)現在の地に再移転し、同年に宝寿山観龍寺と改称された。江戸時代中期の1740年代に2度にわたり伽藍が焼失、本堂は寛延2年(1749年)に再建以降時代に整備し現在に至る。再建された本堂の屋根瓦は古い物で約250年前のものとされ、三つ巴やリンドウ、菊などの紋が刻まれている。

同じ鶴形山の妙見宮(現在の阿智神社)は室町時代末期に倉敷村の鎮守として現在の観龍寺の場所に祀られ、文禄3年(1594年)に現在地に移転した。寛永元年(1624年)に観龍寺が妙見宮別当となったが、明治2年(1869年)神仏分離令により妙見宮は分離され阿智神社に改称している。

阿智神社については、神社のHPを参照してみよう。

応神朝に朝鮮半島より渡ってきた漢の霊帝の曾孫、阿知使主(あちのおみ)一族。彼等は「製鉄」「機織」「土木」等の先進文化を担う技術集団として、吉備国の繁栄の礎を築き、当時、島(内亀島)であったこの鶴形山に神々の天降られる斎庭として、日本最古の蓬莱様式の古代庭園を造ったと伝えられている。
社伝によると神功皇后がこの付近を航行の折、嵐に遭い祈願されたところ、三振の剣が天空より明るく輝いてこの山に天下ったため、「明剣宮」として、宗像三女神をお祀りしたとされている。
中世、神道が仏教と習合し、明治までは「妙見宮」と称され、旧倉敷総鎮守の宮として近郷近在の人々の尊崇を集めてきた。
祭神の宗像三女神は皇祖神、天照大御神と素盞鳴尊の娘神で、海の守護神であり、交通交易、財宝、芸術、美の神でもある。その他、応神天皇を始め、約三十柱の神々をお祀りしている。
また山には神々をお祀りする磐坐(いわくら)が点在し、古代から神の島として崇められてきたと思われる。
社伝では4世紀頃に開創とか。古い! 由緒ある神社なのだ。
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すっかり晴れ渡った今も、誰もいないけど、思い切って階段をあがってみる。

大岩のご神体?の前に、ちいさな社が。なになに、御祭神は「八意志兼神(やごころおもいかねのかみ)」さま。初めて知る神様かも。

八百万の神のなかで、最も思慮深く、知恵と知識を兼ね備えた、企画開発の神。御神徳のなかに、「痴呆除」の文字が私の中でひときわ燦然と輝き出す。これはお参りしとかなくては! 将来ではなく、いますぐ必要!
でも登っても登っても、どんどん寂しくなるばかり。残念だけど、夕方だし諦めてお寺の方向へ右折。

りっぱな鐘楼を仰いで、その由来などを読む。

別院というのはよく聞くけれど、別格本山というのは初めて。

別格本山「観龍寺」。以下の説明はウィキペディアより。
寛和元年(985年)尭勢津師により現在の倉敷市西岡に慈照院(西安寺)の塔頭として開創。当時は北斗山宝積院と称していた。
室町時代に鶴形山の麓、現在の駐車場の場所に移転し、寛永元年(1624年)現在の地に再移転し、同年に宝寿山観龍寺と改称された。江戸時代中期の1740年代に2度にわたり伽藍が焼失、本堂は寛延2年(1749年)に再建以降時代に整備し現在に至る。再建された本堂の屋根瓦は古い物で約250年前のものとされ、三つ巴やリンドウ、菊などの紋が刻まれている。

同じ鶴形山の妙見宮(現在の阿智神社)は室町時代末期に倉敷村の鎮守として現在の観龍寺の場所に祀られ、文禄3年(1594年)に現在地に移転した。寛永元年(1624年)に観龍寺が妙見宮別当となったが、明治2年(1869年)神仏分離令により妙見宮は分離され阿智神社に改称している。

阿智神社については、神社のHPを参照してみよう。

応神朝に朝鮮半島より渡ってきた漢の霊帝の曾孫、阿知使主(あちのおみ)一族。彼等は「製鉄」「機織」「土木」等の先進文化を担う技術集団として、吉備国の繁栄の礎を築き、当時、島(内亀島)であったこの鶴形山に神々の天降られる斎庭として、日本最古の蓬莱様式の古代庭園を造ったと伝えられている。
社伝によると神功皇后がこの付近を航行の折、嵐に遭い祈願されたところ、三振の剣が天空より明るく輝いてこの山に天下ったため、「明剣宮」として、宗像三女神をお祀りしたとされている。
中世、神道が仏教と習合し、明治までは「妙見宮」と称され、旧倉敷総鎮守の宮として近郷近在の人々の尊崇を集めてきた。
祭神の宗像三女神は皇祖神、天照大御神と素盞鳴尊の娘神で、海の守護神であり、交通交易、財宝、芸術、美の神でもある。その他、応神天皇を始め、約三十柱の神々をお祀りしている。
また山には神々をお祀りする磐坐(いわくら)が点在し、古代から神の島として崇められてきたと思われる。
社伝では4世紀頃に開創とか。古い! 由緒ある神社なのだ。

2016/8/8
御霊神社 その2 神社仏閣/教会
御霊神社には、さまざまなモニュメントがある。

まずは「広辞苑」の編者、新村出氏の歌碑。

すっかり擦り切れてしまったこの石碑は、

江戸時代の国学者、神道学者、歌学者でもある富士谷御杖(ふじたにみつえ)の詞碑。

といわれても、知らんお方だけど。

こちらはどなたもご存知なビッグネーム、松尾芭蕉の句碑。

芭蕉が参拝した折りに奉納した俳句、「半日は神を友にや年忘レ」が、彫られているそうだ。

この文化的モニュメント近くにいらっしゃった狛犬さんたちは、いたって天真爛漫かつ素朴な、私好みの方々だった。

こちらは伏見城から移築したといわれている四脚門。

遅ればせながら、案内看板も。英語、中国語、韓国語でも読む事ができます。

応仁の乱、発祥の地とは。やっぱり怨霊の・・・(汗)

そんな謂れのある神社の向いには、ひっそりとした和菓子屋さんがある。

ひっそりとしてはいるが、やんごとなき方々御用達のお店。水田玉雲堂さんは文明9年(室町中期!)創業の老舗。創業から現在まで500年以上もの間、「唐板」のみ!を作り続けてらっしゃる。
「唐板」とは、千年以上の歴史を有する疫病除けのお煎餅のこと。平安時代の初め、疫病を起こす疫神や怨霊を鎮める祭礼「御霊会(ごりょうえ)」が「神泉苑(しんせんえん)」で執り行われた際、時の清和天皇が人々に振る舞われた疫病除けの煎餅が「唐板」のルーツらしい。
応仁の乱で御霊会は途絶えたが、のちに御霊神社境内に茶店を開かれた水田玉雲堂さんのご先祖が、古書を頼りにその製法を再興。疫病除けの煎餅として御霊神社の名物となった。明治維新まで、皇室では皇子が誕生すると御霊神社へお参りし、唐板をお土産にしたといわれている。
皇室関係者でない、そして裕福でもない一般庶民でも、普段使いの袋入りの「唐板」を700円で購入することができる。700円で皇室気分を味わえる、かもしれない。さすがは千年の都、京都である。
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まずは「広辞苑」の編者、新村出氏の歌碑。

すっかり擦り切れてしまったこの石碑は、

江戸時代の国学者、神道学者、歌学者でもある富士谷御杖(ふじたにみつえ)の詞碑。

といわれても、知らんお方だけど。

こちらはどなたもご存知なビッグネーム、松尾芭蕉の句碑。

芭蕉が参拝した折りに奉納した俳句、「半日は神を友にや年忘レ」が、彫られているそうだ。

この文化的モニュメント近くにいらっしゃった狛犬さんたちは、いたって天真爛漫かつ素朴な、私好みの方々だった。

こちらは伏見城から移築したといわれている四脚門。

遅ればせながら、案内看板も。英語、中国語、韓国語でも読む事ができます。

応仁の乱、発祥の地とは。やっぱり怨霊の・・・(汗)

そんな謂れのある神社の向いには、ひっそりとした和菓子屋さんがある。

ひっそりとしてはいるが、やんごとなき方々御用達のお店。水田玉雲堂さんは文明9年(室町中期!)創業の老舗。創業から現在まで500年以上もの間、「唐板」のみ!を作り続けてらっしゃる。
「唐板」とは、千年以上の歴史を有する疫病除けのお煎餅のこと。平安時代の初め、疫病を起こす疫神や怨霊を鎮める祭礼「御霊会(ごりょうえ)」が「神泉苑(しんせんえん)」で執り行われた際、時の清和天皇が人々に振る舞われた疫病除けの煎餅が「唐板」のルーツらしい。
応仁の乱で御霊会は途絶えたが、のちに御霊神社境内に茶店を開かれた水田玉雲堂さんのご先祖が、古書を頼りにその製法を再興。疫病除けの煎餅として御霊神社の名物となった。明治維新まで、皇室では皇子が誕生すると御霊神社へお参りし、唐板をお土産にしたといわれている。
皇室関係者でない、そして裕福でもない一般庶民でも、普段使いの袋入りの「唐板」を700円で購入することができる。700円で皇室気分を味わえる、かもしれない。さすがは千年の都、京都である。


2016/8/7
御霊神社 その1 神社仏閣/教会
正面の拝殿。清々しい佇まい。ま、神社だからね。

絵馬殿もありましたけど、暑さのせいか観察を怠りました(汗)

瑞垣を巡らされている。御簾のようなものかも。畏れ多いので、間接的に見える配慮(作戦?)なのかも。

おお、あちらで参拝するようだ。

狛犬の後ろ姿がキュート。

茹でた蛸のような屋根の石灯籠は、レリーフが細かい。十二支が巡る上には、馬?に乗る姫君?が。なんなんだ、一体。小嶋先生に質問すべき箇所だった。

笑っているとしか見えない狛犬。それもどちらかといえば、上から目線な笑いだ。

そんな相棒を、苦々しい顔で見やる吽形の狛犬。

拝殿の奥にずらりと居並ぶのは、

三十六歌仙の方々。これについては、小嶋先生にお聞きしたので明白。神社には和歌を奉納することがあり、そのため三十六歌仙の方々の肖像画を掛けているのだとか。

真夏の緑の中には、

こんな像も。

司馬温が子供の頃皆で遊んでいたら、友達が水瓶に落ちてしまい溺れそうになった。皆が慌てふためくなか、司馬温だけは機転を利かせ瓶を割って救出したという話。命の大切さを表しているとの事。

しかし、この子は何を考えて瓶によじ上ったのか、意味不明だ。ま、子どもはそんなもんだけど。砂利の山に駆け上がったり、わざわざ水たまりに入ってみたり、横に石段があるのに崖を登ってみたり。私もそんな子どもだったから、意味不明なことをするのも、わからぬでもない。

「てーへんだ、てーへんだ! 落っこちやがった!」 と、がらっ八(銭形平次の子分)のようにパニックになる子どもたちの中で、

手近にあった大石で瓶を割った幼い司馬温。機転を利かせて友達の命を救ったという故事だけど、

子どもの力で石を持ち上げ、いわんや瓶を割る事ができる、という方が私には驚異だ。機転もあるが、その力業に驚いた。沈着冷静にして力持ち。天は二物を与える。という故事でもあるのかも?
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絵馬殿もありましたけど、暑さのせいか観察を怠りました(汗)

瑞垣を巡らされている。御簾のようなものかも。畏れ多いので、間接的に見える配慮(作戦?)なのかも。

おお、あちらで参拝するようだ。

狛犬の後ろ姿がキュート。

茹でた蛸のような屋根の石灯籠は、レリーフが細かい。十二支が巡る上には、馬?に乗る姫君?が。なんなんだ、一体。小嶋先生に質問すべき箇所だった。

笑っているとしか見えない狛犬。それもどちらかといえば、上から目線な笑いだ。

そんな相棒を、苦々しい顔で見やる吽形の狛犬。

拝殿の奥にずらりと居並ぶのは、

三十六歌仙の方々。これについては、小嶋先生にお聞きしたので明白。神社には和歌を奉納することがあり、そのため三十六歌仙の方々の肖像画を掛けているのだとか。

真夏の緑の中には、

こんな像も。

司馬温が子供の頃皆で遊んでいたら、友達が水瓶に落ちてしまい溺れそうになった。皆が慌てふためくなか、司馬温だけは機転を利かせ瓶を割って救出したという話。命の大切さを表しているとの事。

しかし、この子は何を考えて瓶によじ上ったのか、意味不明だ。ま、子どもはそんなもんだけど。砂利の山に駆け上がったり、わざわざ水たまりに入ってみたり、横に石段があるのに崖を登ってみたり。私もそんな子どもだったから、意味不明なことをするのも、わからぬでもない。

「てーへんだ、てーへんだ! 落っこちやがった!」 と、がらっ八(銭形平次の子分)のようにパニックになる子どもたちの中で、

手近にあった大石で瓶を割った幼い司馬温。機転を利かせて友達の命を救ったという故事だけど、

子どもの力で石を持ち上げ、いわんや瓶を割る事ができる、という方が私には驚異だ。機転もあるが、その力業に驚いた。沈着冷静にして力持ち。天は二物を与える。という故事でもあるのかも?

2016/8/5
相国寺 その3 神社仏閣/教会
庫裏(くり)「香積院」。禅院の庫裏(くり)に多い切妻妻入で、大きい破風や壁面が特に印象的。方丈と接続している。

文化四年(1807)の建立(伝)。
正面向かって左側にある大玄関は、明治十六年(1883)に二世国師の五百年遠忌に際して設けられたもので、それまでは韋駄天(いだてん)を祀る室であったと考えられている。バランスの良い立面を持つ相国寺の庫裏は、五山の大型庫裏の遺構として、歴史にも貴重。平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財になった。

やたらかっこいい!!

方丈勅使門。方丈は襖絵や庭園など見どころ満載なんだけど、特別公開時のみ拝観可なので、今回は残念ながらスルー(汗)

透かし彫りがおしゃれなので、通りすがりに早足で進みつつシャッターを切る。

浴室。相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれる。1400年頃の創建。現在のものは、慶長初年(1596)に再建されたもので、平成十四年(2002)六月に復元修復された。
宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にあり、浴室の別名である*。
禅宗では、日常の立ち居振る舞いすべてが修行の場であり、浴室は、修行の上で「心」と「体」の垢を落とすという意味で、重要な役割を果たしている。

ところで、「宣明」を称せられるのは、皇室、及び将軍家に限られ、足利義満が創建した相国寺の浴室なので「宣明」と称せられることになった。京都府指定有形文化財。
*首楞厳経のなかに、十六人の菩薩が風呂の供養を受けた際、跋陀婆羅菩薩を始め菩薩達が忽然として自己と水が一如であることを悟ったことが記されています。そのときの跋陀婆羅菩薩の言葉に「妙觸宣明、成仏子住」とあり、宣明とは明らかであり、はっきりとしている言う意味です。この故事にならい禅宗寺院の浴室は宣明と呼ばれ、跋陀婆羅菩薩をお祀りしています。

相国寺境内を出て、塀伝いに歩く。灼熱の太陽が、くっきりと影を落とす。それにしても、まっさらの土塀が美しく、黄色のように見える。

普賢菩薩霊場「大光明寺」の看板が掛けられている。

まっさらの土壁のあとには、

すこし歴史を重ねた白壁が続く。

それにしても暑い! 上着が汗だくで、絞れそう。

最後尾のスタッフさんも、こころなしかバテ気味??

般若林は、当初、僧侶達の修行の場を指したが、後には境内の森を指すようになった。

現在はなんらかのイベントなどが、たまに行われているので、そんな機会をみつけられれば入れますよ、とのこと。

小首をかしげた松の大木が、とおせんぼ。

いかにも真夏の曲がり角だ。
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文化四年(1807)の建立(伝)。
正面向かって左側にある大玄関は、明治十六年(1883)に二世国師の五百年遠忌に際して設けられたもので、それまでは韋駄天(いだてん)を祀る室であったと考えられている。バランスの良い立面を持つ相国寺の庫裏は、五山の大型庫裏の遺構として、歴史にも貴重。平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財になった。

やたらかっこいい!!

方丈勅使門。方丈は襖絵や庭園など見どころ満載なんだけど、特別公開時のみ拝観可なので、今回は残念ながらスルー(汗)

透かし彫りがおしゃれなので、通りすがりに早足で進みつつシャッターを切る。

浴室。相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれる。1400年頃の創建。現在のものは、慶長初年(1596)に再建されたもので、平成十四年(2002)六月に復元修復された。
宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にあり、浴室の別名である*。
禅宗では、日常の立ち居振る舞いすべてが修行の場であり、浴室は、修行の上で「心」と「体」の垢を落とすという意味で、重要な役割を果たしている。

ところで、「宣明」を称せられるのは、皇室、及び将軍家に限られ、足利義満が創建した相国寺の浴室なので「宣明」と称せられることになった。京都府指定有形文化財。
*首楞厳経のなかに、十六人の菩薩が風呂の供養を受けた際、跋陀婆羅菩薩を始め菩薩達が忽然として自己と水が一如であることを悟ったことが記されています。そのときの跋陀婆羅菩薩の言葉に「妙觸宣明、成仏子住」とあり、宣明とは明らかであり、はっきりとしている言う意味です。この故事にならい禅宗寺院の浴室は宣明と呼ばれ、跋陀婆羅菩薩をお祀りしています。

相国寺境内を出て、塀伝いに歩く。灼熱の太陽が、くっきりと影を落とす。それにしても、まっさらの土塀が美しく、黄色のように見える。

普賢菩薩霊場「大光明寺」の看板が掛けられている。

まっさらの土壁のあとには、

すこし歴史を重ねた白壁が続く。

それにしても暑い! 上着が汗だくで、絞れそう。

最後尾のスタッフさんも、こころなしかバテ気味??

般若林は、当初、僧侶達の修行の場を指したが、後には境内の森を指すようになった。

現在はなんらかのイベントなどが、たまに行われているので、そんな機会をみつけられれば入れますよ、とのこと。

小首をかしげた松の大木が、とおせんぼ。

いかにも真夏の曲がり角だ。

2016/8/4
相国寺 その2 神社仏閣/教会
次は、重要文化財の法堂へ、

ぞろぞろと歩く一行。

法堂はハットウと読むらしい。もちろん建立当時ものは焼失している。

これは慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、5回目の再建だ。

5回目の再建でも、国内での法堂建築では最古のもの。

次の目的地は、堂々たる鐘楼(しょうろう)、一名「洪音楼」(鐘は1629年の造立)でもなく、

きらびやかな弁天社でもなく、

かなり地味なお稲荷さま、「宗旦稲荷」。宗旦とは千利休の孫、千宗旦という茶人の名前だ。

ここには「宗旦狐」の故事が伝わっている。

江戸時代の初め頃、相国寺境内に一匹の白狐が住んでいた。その狐はしばしば茶人・千宗旦(1578−1658)に姿を変え、人々の前に姿を現していた。
宗旦になりすましたその狐は、近所の茶人の宅へ赴いては茶を飲み菓子を食い荒らすことがたびたびだった。
ある日、大事な茶会に宗旦は遅れてしまった。遅れた宗旦は、宗旦狐が相国寺塔頭慈照院の茶室びらきで、点前を披露しているのを見る。驚いたことにその点前は実に見事なもので、宗旦は感じ入ったという。

その伝承のある「い神室(いしんしつ)」は現在でも慈照院に伝えられており、茶室の窓は、宗旦狐が慌てて突き破って逃げたあとを修理したので、普通のお茶室より大きくなってしまったとのことだ。
そのような故事があるため、茶の湯上達を願う人々の参詣が絶えない場所なのだとか。

いつもながら、こういう故事やいわれを語るときの小嶋先生は、いかにも楽しそうだ。
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ぞろぞろと歩く一行。

法堂はハットウと読むらしい。もちろん建立当時ものは焼失している。

これは慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、5回目の再建だ。

5回目の再建でも、国内での法堂建築では最古のもの。

次の目的地は、堂々たる鐘楼(しょうろう)、一名「洪音楼」(鐘は1629年の造立)でもなく、

きらびやかな弁天社でもなく、

かなり地味なお稲荷さま、「宗旦稲荷」。宗旦とは千利休の孫、千宗旦という茶人の名前だ。

ここには「宗旦狐」の故事が伝わっている。

江戸時代の初め頃、相国寺境内に一匹の白狐が住んでいた。その狐はしばしば茶人・千宗旦(1578−1658)に姿を変え、人々の前に姿を現していた。
宗旦になりすましたその狐は、近所の茶人の宅へ赴いては茶を飲み菓子を食い荒らすことがたびたびだった。
ある日、大事な茶会に宗旦は遅れてしまった。遅れた宗旦は、宗旦狐が相国寺塔頭慈照院の茶室びらきで、点前を披露しているのを見る。驚いたことにその点前は実に見事なもので、宗旦は感じ入ったという。

その伝承のある「い神室(いしんしつ)」は現在でも慈照院に伝えられており、茶室の窓は、宗旦狐が慌てて突き破って逃げたあとを修理したので、普通のお茶室より大きくなってしまったとのことだ。
そのような故事があるため、茶の湯上達を願う人々の参詣が絶えない場所なのだとか。

いつもながら、こういう故事やいわれを語るときの小嶋先生は、いかにも楽しそうだ。
