2013/3/14

『高く手を振る日』の読書会  読書

 やっと普通(の量)にご飯が食べられるようになったので、完全回復は近そうだ。やっぱり病院の薬は治りがはやいわ〜。

 さて、先日の読書会だ。課題本は黒井千次さん『高く手を振る日』。

 高齢者の初々しい恋愛話ということで、実はものすごく期待して読んだわけですよ。確かにどきどきしながら盛り上がる恋心が巧みに描かれている。美しく年をとり、しゃっきりと頭をあげるかっこいい女性の姿が目に浮かぶし、葡萄の枝の成長ぶりや子どもとの会話のエピソードが、物語に光を差し込ませている。うまいなあ〜とは思う。

 要するに、構成や文章やストーリーの流れ方やエピソードの挟み方や読みやすさについては、達者なことは認めます。作者は、上手い人なの。

 でもなんかひっかかる。わかってる。主人公の浩平が、どうにも好きになれないのだ。共感できないの、どうしても。

 美しくもリリカルな老人たちのはかない恋物語? 単に私の意地が悪くなっただけかもしれないけど、この主人公が欲しいのは「恋」でも「重子さん」でもない様な気がしてしょうがない。なんだろう、真空パックの「美しい恋をした記憶」。そういうほんわかしたトキメキみたいなの。男のセンチメンタルなロマンというやつ。

 娘に彼女とのデート(?)を黙っていたのは、周囲への気遣いというより、主観的な「美しい恋」を娘(自分以外の人)の客観的な目で台無しにしたくないだけなのでは。恋のウキウキやウロウロや恥ずかしくなるような気障な台詞は吐くけれど、そこまで。キスはするけれど、それまで。

 それを成熟した男の控えめさや気遣いや諦念とも取れるけど。いやいや、彼に「成熟」があるとは、私には思えない。むしろ「成熟」を感じるのは重子さんだ。男の気持ちなんて、とうの昔にお見通しの手綱さばきのしたたかさを、なんとなく感じたのは、気のせいか? 浩平の妻であり今は亡き親友への、彼女の猛烈なライバル心とかも。

 きっと男性には、ものすごくウケる話なんだろうな。どの書評みても絶賛だし。フレームや文章については、「絶賛」に同意するけど、キャラクターについては、なんでみんな「あの男」の胡散くささに気づかないんだろう、と思ってしまうんだな。

 いや、ほとんどの人は絶賛していたから、私の読み方がイジワルすぎるのかもしれないけど。ああいう男には注意した方がいいですよ、とつい忠告したくなるんですよ。絶対、めんどくさいヤツだと思うから。なにはともあれ、重子さんが彼と離れることになって、私は安堵したのでした。だからラストは「めでたし」かも。

 という意見(ホントはもう少し控えめ)で、絶対多数に反旗を翻してしまったのだけど、「若い(相対です・汗)人の斬新で面白いご意見」と、驚かれながらも温かく聞いてもらえるのが読書会の素晴らしいところなのでした。

 文章の瑞々しさや、「いきどまり」の閉塞感から、葡萄や子どもたちの言葉に生き生きした生を取り戻す場面を押される方、思春期のような恋のドキドキ感などがとりあげられ、それら全面的に絶賛される方もいらっしゃるし、現実的に老人の恋愛についての事例あり、認知症の元上司に冷たい主人公に反感をもつ意見あり、百花繚乱で、読書会の醍醐味を満喫できたひととき。

 私と唯一同意見の年下のNさん曰く、「サンデル教授もびっくりの、白熱読書会!」。

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 読書会の帰り、赤い短冊が風になびく。左義長祭、近し!
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2013/2/13

やっぱり池田澄子さん♡  読書

 たまに台所でうっとりしている。料理をしているときではない。カレンダーを見ている時である。

 台所にあるのは、昨年末に手作りした『池田澄子俳句カレンダー』だ。彼女の俳句を1ヶ月に数句並べて、1句につきワンポイントイラストを付ける。

 昨年、あまりに彼女の事が好きで、数句半紙に書いて、壁にはったことがあった。池田澄子さんの俳句を目にする度、両の足で立ち上がり、一歩ずつ着実に歩き、日々を暮らしていくたくましいパワーをいただけた。それは、彼女のお茶目さ、生活感覚のリアルさ、しみじみ感、ドキドキ感に足並み揃えて共感するからだ。

 でも3月分がまだできていない。2月中にはつくってしまわなきゃ!

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2013/1/29

読書会の醍醐味  読書

 昨日はスペシャル企画読書会、「読書会inたぬき亭」の日。

 手がかからないようお気遣いいただき、日本茶で食べられるお菓子をお持ちいただいた。珍しい「たねや」の「オリーブ大福」という、かなりオシャレ度の高いお菓子だ。まるで香水壜のように高級感あふれるプチ容器に入った純オリーブ油を、上品な大福にたらしていただく。気分はセレブの集会(場所の空気は全然セレブではないが)。

 めったにないわが家のセレブショットが撮れたのに、やはり似合わない事をしたため舞い上がったのか(笑)、写真を撮るのをわすれちゃったよ。せめてオリーブ油だけでも↓

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 やはりさすがの高品質だけあって、オリーブ油はべたつかず、さらっと。こぼれた油は、すかさずお肌に浸透させて、美容にも役立つすぐれものだ。

 四面は、スピーカーその他の音響機器、モダン障子、薪ストーブ、本や雑誌、その他細かいへんなものたち。という中での読書会なので、皆さん内心気もそぞろだったのでは(汗) 

 それでも本日は読み込みが必要なテキスト読書会ではなく、最近のマイ・フェイヴァリットな本の紹介だったので、多少浮き足立ってもOKなのかも。

 それでも面白いのは、世間話をしているときには、たとえば平面的にしか見えない「目の前の人」が、自分の好きな本について話し出すと、がぜん立体的に見えてくるところ。もちろん比喩ですが。それは、「複数の」本を紹介してくださることによってもたらさせるものかもしれないのだけれど。モノクロームでしか理解していなかった他者が、天然色として立ち上がってくるとか。

 テキストがあるときだって、そう。テキストへの色んな読みや視点やアングルを聴いて、「あ、そういう読み方が!?」という発見や「そうそう、そうなんですよね!」という共感とともに、「そのひととなり」みたいなものが、鮮明に浮き上がって来たりする。

 もちろん、テキスト自体の読み込みも深まるし。

 読書会自体のカラーもあるし。別の読書会では、「この本を読んで、何が食べたくなったか?」という話が必ず出たり(笑) 意外にこれって、読書の重要ポイントのような気がする。

 姫野カオルコさんの『リアル・シンデレラ』を読んで、無性にバター風味のきいたポテトサラダが食べたくなった!と盛り上がったこともあったし、中島京子さんの『ちいさいお家』を読んで、手作りピーナッツバターの作り方を伝授してもらったりもした。逆に食べ物の要素がない小説は「ものたりない」のかも(笑)

 その後に繰り広げられる本の貸し借りとかも、読書会の重要な醍醐味かもしれませんよね。 

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 昨日の9時頃は、まだこんな感じで雪に。

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 少し雪が溶け出して、地肌が透けて来始める。午後には雪は消え、ぬかるみが残った。
 
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2012/12/26

拝復!!  読書

 「小躍り」、という言葉を今日、文字通り体現してしまった。
 また「有頂天」、という言葉も体験してしまった。
 四字熟語でいえば、「欣喜雀躍」である。「狂喜乱舞」も似てはいるが、ニュアンスとしてはあてはまらない。

 この師も走るという時期に、何がそんなにうれしいのか。

 お昼過ぎに郵便受けを見に行ったら、ダイレクトメールではなく、私宛の私信が来ていたのだ。それだけで、充分うれしい。知り合いからの私信は、しばらく飾っておきたいほどうれしい。

 でもそれは、ただの私信ではなかった。
 まさに、

「キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!」

 と表現したくなる出来事だったのだ。

 そう、来たのである。先日ファンレターを出した俳人・池田澄子さんからの、「拝復」で始まる達筆のお葉書が! 私が最初にやられてしまった彼女の最新句集が、まさに『拝復』というタイトルなのである。だからもう、「拝復」という文字をみただけで「池田さんの生文字の『拝復』が〜〜!!」とさっそく小躍りしてしまうのも、ムリはなかろう。 

 それも単なる礼状ではなく、実にフランクで、いかにも池田さんらしい柔軟な精神と、お茶目な心と、女学生のような瑞々しさが、小さな四角いハガキに踊っていた。

 こんな田舎の名もなき一ファンに、なんとありがたや〜と心は感涙にむせび、おもわず『平清盛』の最終回の盛国のように「もったいのうございます!!」と満面の笑みで平服したくなりましたよ。

 ウキウキしていたらH氏に、「ところであんた、本買って読んだんか?」というご指摘が飛んで来た。 

 えっ?

 「この人に印税いれてあげなあかんやろ」

 ううっ・・・痛い所を。・・・しかし確か、2冊は買った! 
 あ・・・でも絶版だったし1冊は古本で買ったんや。あと句集2冊は、手書きで図書館の本を半分くらい写し取ったし(いつの時代や!?)
 ・・・すみませんでした。来年は必ず買って、手元に置いて読みますね。
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2012/12/22

拝啓、池田澄子さま。  読書

 友達には楽しく何枚も書けるのに、特別に好きな人に初めて出す手紙はとても緊張する。しかも筆が進まず、何度も書き損じを重ねる。まして目上の方には、マナー違反がないかどうか、「手紙の書き方」を参照しつつ、それも何パターンかある場合には「この場合、どうなのか?」と悩みつつ。

 今年中、ずーーーっと書きたかった手紙があったが、そんな訳でなかなか投函には至らなかった。しかし、いや今年中には決着をつけたいと、この二日ほど実は悪戦苦闘して、やっとさっき投函したところ。今週の頭に、和風シックでありながら愉快なクリスマスカードもみつけたので、同封した。偉い方なのに、いいのか?とも思ったが、あの方のお茶目なところが大好きで、ファンレターを書こうと決心をしたのだから、いいだろう。

 およそ40年ぶりのファンレターを勢いで書き、後で読み直したらゼッタイ恥ずかしくてしょうがないのでコピーもとらず、エイヤッと投函する。初めてのファンレターは中学生の頃に書いた北杜夫さんへのもの。律儀な方で、サイン入りのお返事もいただいた♪宝物である。

 土曜日なので、郵便局はお休み。ポストの集配時間も今日の分は終わっているので、市内の中央郵便局まで車で走る。中央郵便局もやはりクローズだったが、その前のポストは1時間後に回収されるので、ひと安心。

 中央郵便局の利用率は高く、入れ替わり駐車場に車が入って来て、みなさんクローズドした扉を見て、気落ちし、あるいはあきらめきれず、開いている扉を探したりされていた。郵便局のカーテンは閉まっているけど、灯りはついているので「もしかしたら」という気持ちも痛いほどわかる。

 帰りには肩の荷を降ろしたような、読んでいただくのがうれしいようなこわいような想像をしつつ、ドキドキわくわく楽しい気持ちでケーキ屋さんに寄り道する。クリスマス返上で勉学に励むKちゃんと、超多忙を極めた連続出勤を終え帰宅したTくんのために、一足早いお疲れさまクリスマスケーキだ。

 ということで、今年の課題だった俳人、池田澄子さまへのファンレターは完結した。どうぞ長生きして、素敵な俳句やエッセイをこれからも世に届けてくださいませ。
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2012/12/12

『鷺と雪』  読書

 昨日は読書会で、課題本は北村薫の小説『鷺と雪』だった。

 これは、第141回(2009年上半期)直木賞受賞作品だ。ミルフィーユのように幾層もの味わいがあり、どんどん読める馴染みやすさなのに、ストーリーは滑らかで、内容も文章も表現も素晴らしく、密度は高い。文学へのあふれる蘊蓄、冷徹ともいえる静かな歴史観、昭和初期の風俗への造詣や嗜好が読めるのも楽しい。

 乙女な文章は、まるでうら若い女性の手によるものかと思われるほどだが、作者は温厚そうなおじさんだ。心憎いばかりに乙女心を熟知されている。男性作家が陥りがちな女性への誤解や偏見や思い込みが皆無なばかりか、誇りや矜持を持つ女性への共感や尊敬も垣間見える。

 たとえばラスト近くの佳境で、ヒロインの上流階級のお嬢様、英子さんのおかかえ運転手であるベッキーさんが、身分が違いすぎる青年とシャープでディープ、かつスケールの大きな会話を交わす場面。ふたりの緊張感高まる会話文の間に、「炭のはぜる音がした。」という感覚(聴覚)を刺激する文章が入り、リアルで緊迫感あふれる場面になっていた。

 ところで、直木賞を受賞しているのなら、講評も読んでみたい。たぶん選考委員の「あのお方」は酷評だろうなと予想していたら、案の定。彼の意見がスルーされて、よかったよかった。まあ、じゃないと直木賞の受賞作品がなくなるし。

 選考委員の講評で、いちばん好きな方は宮部みゆきさんだ。正面から本気で取り組んでおられ、小説愛をもって選考されている姿勢がぐっとくる。
 この作品も「いちおし!」とまではいかなかったけれど、丸印はついていて、こんな素敵な講評をされていた。

宮部みゆき評
「「私のベッキー」シリーズを愛読してきて、ずっと不思議に思っていました。ヒロインの英子にぴったりと寄り添って活躍する女性運転手の別宮(べっく)が、強烈な存在感と希薄な生活感を併せ持ちながら、まったく不自然な人物ではないのは何故だろう、と。」「今回、『鷺と雪』を読んで、初めて解りました。別宮は〈未来の英子〉なのです。だからこそ、終盤で別宮が「別宮には何も出来ないのです」と語る言葉が、こんなにも重く、強く心に響くのです。素敵な発見でした。」


 やっぱり宮部さんは別格。彼女が選考委員のひとりで、本当によかった。かつて「時と人シリーズ」を書いた北村さんの小説を、しっかり読み解いておられるのだ。

 『鷺と雪』は「ベッキーさんシリーズ」の第3作目なので、さかのぼって1作目の「街の灯」、2作目の「玻璃の天」をこれから読まなくちゃ。

 ところで『鷺と雪』には、「歴史の歯車が回り出したら、その大きな力は国家でさえも止められない」というようなことが書かれていた。

 この前久しぶりにTくんより電話がかかってきて、彼のことだから、当然選挙の話になった。選挙結果いかんでは、非常にアブナイ方向に動きかねないと危機感と焦燥感を募らせていた。
 
 古老のひとが「いまの空気は戦争の前の空気とよく似ている」といっているというのを読んだことがある。
 本日の朝日新聞で読んだ元衆議院議長・河野洋平さんの言葉が一層リアルだ。
「このまま右へ右へと行けばリベラル勢力が絶滅しかねない。崖から落ちれば有権者も気づくかもしれないが、その時は引き返せなくなるという危惧があり、右傾化への歯止めが必要だ」

 くすぶった選挙ムードや、政治への絶望感が、うっかり歴史の歯車を崖っぷちに向かわせませんように、と祈るばかりだ。
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2012/12/4

いしいしんじさん  読書

 だいぶ前の話で恐縮だが、11月半ば、近江八幡図書館で行われた「いしいしんじ講演会」に行ってみた。

 ご自身で言われた言葉でいうなら、「始めの頃は小説を書かないリリー・フランキーさん、あるいはエッチなことを書かないみうらじゅんさんみたいな仕事をして」いて、その後ファンタジック、かつ濃厚な人生の滋味をぞんぶんに含んだ小説(おはなし)をお書きになっていらっしゃる作家さんである。

 わたしとしては、中島らもさんといしいさんの対談を読んでいたので、「あんな感じ」のお笑いライブみたいになるのかも?という予想だった。「あんな感じ」とは、マジックマッシュルームや咳止め薬の服用を日常茶飯事のように話し、「メシを1日3度食べるのはめんどう」というような奇抜な中島らもさんと、まるで「夢路いとしこいし」の漫才のように、いしいさんは淡々と(!!)息の合った会話をする飄々さだ。

 今回は講演会なのでピンだけど、実のところサービス精神のある爆笑話だと予想していた。

 ところがなんと豈図(あにはか)らんや、衝撃的に予想を覆されてしまった。彼の小説同様、(人)生の本質に迫るような話のかずかずだったのだ。

 普通の人(作家さんも含めて)は、分厚い空気の層に包まれて自分の身を守って生活している。地球が大気圏に覆われているみたいに。ダイレクトに宇宙にむき出しになってしまうと、とても生きられたもんじゃないように。嘘やごまかしや鈍感さ、といったズルなしで生きて行くのは、あまりにも人生辛過ぎる。そんなのは堪え難いもののはずだ。

 ところがそんな堪え難いような生き方をされているのが、いしいしんじさんで、彼にはあまりに人生の真実がみえてしまうので、嘘もまやかしもバカバカしくてできないのかも。ホンキの話しかできない人なのだ、きっと。

 とても器用な人だし、サービス精神も旺盛なので、周りの人を楽しませたり、会社勤めもされた。それなりに楽しく社会でやっていける人でもあるのだが、そんな器用な過剰適応が、彼自身を深く蝕んでしまった経験もお持ちだ。

 講演会で一番ファンタスティックなのは、彼が高校生の頃、交換留学で好きな場所に行っていい、といわれて、迷わずアメリカのイリノイ州を希望した話。

 アメリカに着いたはいいが、飛行機の乗り換えがある空港に、ホストファミリーの迎えが来ず、待っている間に本日分のイリノイ州行きの飛行機がなくなってしまった。

 必死で高校生のいしい少年が英語で「なんとかならないか」と係員にたずねたところ、向こうの空港なら便があるかも、と言われイチカバチかでいってみた。なんとその空港は郵便用の飛行機で、「小包としてなら」と体重を量り、小包料金を払って郵便物の袋に入り、隣町までたどり着いたこと。着いた場所で「郵便物として搭乗する」のは向こうの係員のジョークだったので、料金は返してもらったこと。

 地元の新聞に「日本から少年来る」とデカデカと記事が載って、地元の議会にも出席してスピーチをしたこと。「なぜイリノイ州に来たかというと、ぼくはブラッドベリが大好きだからです。みなさんのブラッドベリの本の感想などを後でお聞かせください」といい、スピーチ後、フリーな時間にブラッドベリについて居合わせた人たちに訪ねると、全員ブラッドベリを知らなくて、呆然としたこと。

 そんな不思議な高校時代の思い出が、まるで「本の世界にはいってしまったよう」だったと語られたのが、たいへん印象深かった。いしいしんじさんがブラッドベリアンというのも、とても納得な話だったし。

 あのいしいしんじさんと空間を共にした、というだけで、なんだか人生の神秘に触れられた、みたいな気分になった。きっと「天才」というのは、ああいう人のことをいうのではないか、と鳥肌ものだった。でも、とってもチャーミングでおしゃれで、フランクで優しい、サービス精神旺盛なひとなので、「天才」という語から感じる気難しさや孤独とはかけ離れている。

 いや、むしろ「天使」というべきかもしれないな。そっちのほうが、ずっといしいさんに近い気がする。天真爛漫でピュアなのだ。なにより「人生の神髄」というものがハッキリみえるかのような人だから。彼の小説を読むのと同様に、彼の講演会は「知る」とか「理解する」とかでなく、「体験する」ことだったのでした。
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2012/11/23

ウェルカム、宮田さん♡  読書

ネット上にある「廣済堂よみものWeb」というページの連載よみもの、「日本全国もっと津々うりゃうりゃ」の更新を楽しみにしている。

 「うりゃうりゃ」といえばもう、作者は宮田珠己さんに決まってる。どんなよみものかといえば、タイトルの下の説明を引用すると

ナイスな観光地を求めて、日本全土を東へ西へ。
マジメに探求するほど、右ナナメ25°にズレていく。
誰にも迷走を止められない、脱力系旅エッセイ。


 なのだ。

 愛する宮田さんの更新を、ブックマークしてチェックしているのだが、本日更新されているのを発見し、動悸が走る。どきどき。

 なぜなら彼が、やっとやっと滋賀県に足を踏み入れてくださったことが判明したからだ!! しかもかなりの好感触!!

 彼が東近江市の八日市にある天狗の伝説を持つ太郎坊宮がお気に入りだということは、すでに読んでいた。よかった、気に入っていただけて!

 今回は琵琶湖に浮かぶ聖なる島、竹生島プラスαを探訪されている。なんと地元民である私の未踏の地である。しかも20歳くらいから、ずーーーっと「行きたい行きたい」と言い続けている場所なのに。

 どうも「舟に乗る」というのがネックになっているらしい。しかし船酔いをするからではない。

 伊勢でクルーズ船に乗ってはしゃぎ、県のイベントでKちゃんと一緒に1日クルーズ船に乗せてもらってはしゃぎ、独身の頃は、呉服屋さんのご招待でクルーズ船に乗り込み、夕涼み&コース料理を食べシャンパンを飲んだりもした。船酔い、どこ吹く風である。

 たぶん港まで行くのがおっくうなのと、船賃が高価だからかと思われる。それから舟には乗り馴れていないから、不自然に敷居が高いのかも。かなり思い切らないと決行できないのだろう。「ひとりで」乗ったことがない、というのも敷居を上げるのに一役かっていそうだ。
 ちなみに飛行機の敷居はもっと高い。まだひとりで飛行機に乗ったことが無いからだ(夫と一緒、家族と一緒ならありますが)。高所恐怖症とか飛行機恐怖症ではないです。カミングアウトすれば、新婚旅行で初めて飛行機に乗った時は、夫が戸惑うほどに(笑!)はしゃぎました。

 しかし今回宮田さんの竹生島レポートを読み、かなり思い切っちゃおうと決心した。
「桃源郷に3000円ちょっとで行ってきたと思えば、安いものである。」という彼の言葉に背中を押されたのである。しかも彼の琴線にふれるものが三つもあるというのだ。彼の琴線に触れるのなら、まちがいなく私の琴線にも触れるはずだ(確信)。

 折しも来年は巳年。そして宝厳寺のご本尊は秘仏ではあるが弁財天さまだ。弁財天さまの琵琶を抱えた天女のような風貌は仮のお姿。彼女の正体は実は蛇なのである。まさに来年行くにはうってつけの神社仏閣なのだ。

 ただし冬期は船便がお休みになるので、来年は3月半ばからしか竹生島には行けない。
 
 ところでプラスアルファの場所は湖北の余呉駅、そして余呉湖だ。
 ここは行ったことあるぞ! 余呉湖の周りを徒歩で一周して帰った記憶がある。たしかに宮田さんの言うとおり、なんの変哲もない寂しい場所だった。もっとも私が行ったのは30年前だけどね。

 ・・・あ、忘れてた! 

 私が余呉にいった後、「ウッディパル余呉」というレジャー施設ができたんだっけ。キャンプができ、コテージがあり、アスレチックや体験教室、冬は雪遊びのできる場所だってある。余呉は県内随一の積雪量なのだ。グラウンドゴルフやこどもミュージアム、それにレストランだってあるぞ! 変哲、ありすぎ! 

 いや、宮田さんのよれば、いまどき「なにもない寂しい場所」の方が、「変哲ありすぎ」なんだから、もはや本当に「変哲の無い」場所になってしまったのかも?

 宮田さんに教えてあげないと。いや夢幻が消えないよう、そっとしてあげておいた方がいいのか?

 ともかくも「滋賀県はみどころ満載!」と高評価していただき、ありがとうございました、宮田さん。 
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2012/10/24

『茨木のり子の家』  読書

『茨木のり子の家』という本があることをネットサーフィン中に知った。なんとも素敵な「おうち」らしいので、図書館に借りに行った。なかみはこんな感じ↓

内容紹介(平凡社HPより)
詩人自身が設計し、生前のまま残る自邸のインテリアや庭、蔵書、食器、自筆原稿、日記などをカラーで撮影。貴重なスナップ写真や初公開資料も掲載。茨木のり子ファン、必見!

内容(「BOOK」データベースより)
倚りかからずの椅子、「Y」の箱の自筆原稿、食卓と黒電話、四季の庭の眺め…ピロティから居間・書斎まで、50年の時を刻む詩人の家を撮影。

 シンプルでモダンで、だけどどこか懐かしくほっとする部屋、家具、しつらい。色のある白い漆喰が、深く濃いマホガニー色の木とハーモニーを奏でる。シフォンのカーテンは襞が几帳面に折り畳まれ、ふんわりした甘さを追放し、今は亡き住人の清潔感をも思わせる。

 シンプルで無駄に物を増やさない慎重さはあるのに、藤で編んだ灯りの傘(カバー?)がつけてあって、選び抜かれたおしゃれな物たちも随所に見られる。
 洗練されたおしゃれにありがちな神経質かつクールな部分は全くない。逆にとても居心地良さそうで、お客に行ったら長居せずにはいられないような、ぬくもりのあるお家なのだ。

 丁寧な暮らしぶりや、物を大切に使用されている感に詩人の暮らしを追体験しそう。うっとりとためいきをつかずにはいられません!

 とはいえ、まだ読み(見)始めたばかり。パラパラと見終わるのが惜しいような、じっくり本だ。茨木のり子さんの詩も所々に挟まれて、彼女の声が聞こえて来そうな気もする。

 クラクラするような素敵なお家は、デンマークの作家イサク・ディーネセン(本名カレン・ブリクセン)以来かもしれない。(’90年代前半の『BISES』という園芸を中心とした暮らし雑誌に数頁掲載されていた。BNを図書館で借りたので詳細は不明。特集じゃないので検索しても発見できず。)ということは、15年以上ぶりに、心から賛同するお家を紙の上で見たということか。(幸福なことに、実際に入ってみた物での手放し賛同はいくつかある。大山崎山荘とかヴォーリズ建築とか)

 それにしても故・茨木のり子さんは、「すぐに古びるがらくたは我が山門に入るを許さず」と自身の詩の中でうたっておられるそうだ。なんとストイックな!
 我家はがらくただらけだから、身が縮む思いがする。でもがらくたも、私は好きなんだよね〜。

 恵文社一乗寺店の店長ブログに、この本の記事があったのでここ(←クリック)に貼っておきます。さすがという他ないな。
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2012/10/23

数寄で描く戦国  読書

 腰を落ち着けて2時間で、『へうげもの』第15巻を読了。

 今回の主役?は、ほぼ石田三成。石田自身は気づいてないだろうけど、意外にも彼はほとんど古田の直系愛弟子だ。誰よりも真面目だからこそ、完膚なきまでに叩きのめされたからこそ、たどり着けた対極の境地なのかも。感動。

 織田信長の時代より始まり、いま関ヶ原の戦いが終了したところ。その間、15冊。戦いと、政(まつりごと)と志、なにより数寄を中心として戦国時代を描いているなんて。茶の湯が名だたる武将たちに大流行りで、でも「数寄なんぞ」という武将だっているのだ。
 頭から湯気をたてて「名物」と心中するヤツ、「名物」のために血眼命懸けでイクサに臨むヤツ、心静かに数寄に邁進するヤツと、武将たちも百花繚乱だった。

 茶の湯の道具たちに踊らされ、人生哲学やアイデンティティーを、数寄の中に見つけて行く戦国時代の武将たちの熱さが凄まじくも素晴らしい。武将ではないけど、もちろん千利休も凄かった。

 数寄嫌い派の徳川の世になったとき、数寄者武将たちは如何に考え行動したか・・・というところの描き方も、なるほどこういう歴史的見方があったのか!と、作者の視点に感嘆。

 ところでもしも「へうげもの」が実写化されるとしたら、古田織部役は大河ドラマ『平清盛』でへうげ公卿(!?)、藤原経宗役をされている達者な顔芸の持ち主、有薗芳記さんにぜひお願いしたいものだと願っている。きっとマンガに忠実な顔芸を披露できる、唯一無二の方だと思うので。
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2012/10/10

修行僧、あるいはガキ  読書

 『垂直の記憶』は何の期待も無く、課題本という義務感だけで読み始めた。ところがこれが、思わぬホームランに。

 「のぼる」ためだけに生きる人、山野井泰史さん(と妻、妙子さん含む)の7編の記録。ソロクライマーで、ほぼ単独で酸素ボンベなしに、超難易度の高い山や絶壁に登ことが唯一の欲で生き甲斐のひと。

 なのに2002年、ギャチュン・カン北壁の登攀後、嵐と雪崩に巻き込まれるも奇跡の生還を果たす。そのとき重度の凍傷で手足の指10本を切断する重傷を負ったため、再起不能かと思われたが、できることから再び徐々に登り始める。

 淡々と書かれた山や絶壁に登る記録なのに、私はクライミングにもクライマーにも山登りにもトレッキングにも全く興味がない、呆れた読者だ。

 それでも子どもの頃は山の上がり口に住み、裏山が遊び場だったので山育ちといえなくもない。ティーンの頃は、たぶん常軌を少しだけ逸しているほど自然が好きで、山(20分で山頂に着く裏山に限る)や田んぼや河原に入り浸っていた。その頃の自然はおしなべておそろしくキレイだったのだ。毎日見てるのに、いちいち感動していた(笑)
 というような、自分の過去のちょっと恥ずかしいくらいの自然愛を思い出してしまうくらい、山野井さんも自然ぞっこんな人なのだ。そこで共感。

 それから山野井さんの淡々とした文章は、もちろん冷たいのではなく個として確立しているがゆえ。わがままだけど、憎めないヤツだ。なんていうか悪い意味のコダワリがない。というか山でこだわっていたら、生還できないだろうし。そんなところが、村上春樹の小説の主人公たちのテイストに、なんだか似ている気がする。

 なにがなんでも山に崖に雪と氷の世界にいきたい!という狂おしいほどの思いは、もう「業」だろう。「業」なので、もう善悪とかは関係ない。彼の人生そのものだから。彼の人生は、彼が納得出来るように生きるしかない。人の役に立つとか、世の中のためになる、とかいう理由付けを超えている。

 彼にとって山に登ることは、なにがしかの修行でもあるのかも。大金を集め(そして消費し)、寒さを乗り越え、ハードワークをこなし、凍傷になり、空腹に耐え、薄い空気を呼吸し、睡眠を削る。それを求めてするということ自体、私には理解不能だけど否定はしない。

 彼のブログ『山野井通信』を読んでいると、またちょっと違ったお茶目で悪戯少年みたいな面が垣間見えて面白い。ブログのプロフィールフォトで彼はやっぱりガキの目をしている。次になにをしでかすんだろう、こいつは! と思わせる目なのだ。きっとまた、なにかやらかしてくれるんだろうな、山野井さん。
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2012/9/12

読書会で開眼。  読書

 さて昨日の話。

 夏休みで8月は休会月だったので、2ヶ月ぶりの読書会だ。課題本は山崎豊子さん『運命の人』。文庫版で全4巻のうち3・4巻だ。

 正直1〜3巻までは、なんだか作者の筆のノリが感じられず、読むのもひと苦労だった。

 この感じ、森絵都さんの『DIVE!(全4巻)』1、2巻のときもあったな。後々あとがきを読んだら、途中までは書くのがすごく苦しくて、とても書き続けられないと思ったと書いておられた。ところが3巻は森節炸裂で、私なんか3巻だけ買ったくらいだ。
 でもまあこれは巻ごとに違うキャラを主人公にしたという構成上、1、2巻の主人公が重かったから仕方ない。

 山崎さんの手腕なら、ダラダラした裁判中のあれこれをショートカットしてみっちりした話に編集できたかもしれないのに。せめて3巻ではなく、2巻で裁判を終わらせて欲しかった。せっかく「ひとりでも多くの読者に読んでいただきたい」という思いで早々に文庫化されたのに、途中リタイアする人が目にみえるようで、もったいない。沖縄戦の話はすでに知っていてさえも、あらためて心に来るものがあったから。

 でもまあ、コールドウェルの『タバコロード』とかバージニア・ウルフの『灯台へ』とか忍耐力だけで読み進み、ラスト近くでやっと感動!!というものだってあるからなあ。あの頃は私も若かった(20そこそこ)からこそ、読めたのだろう。1冊(数巻とか上下巻とかでなかった)だったし。

 で、これを読み通せたのは、ひとえに読書会に参加するときは、読んでないと面白くないという一事に尽きる。それだけでなく、読書会のいいところは、みんなで一作品を突っつくので、読書が深まることだ。

 いつも読書会が終わる度に翌日新しい感想を思いつき、自分のスローさを情けなく思うのだけど、それは「みんなで突っついた後」だからこそ深まった感想なのだということに、昨日気づいた。

 ジャーナリストはスクープが花形みたいだけど、実は地道な問題をこつこつ掘り起こし、継続して調査し書いている人がいて、そういう地道さが、草の根で粘り強く活動する人たちを掘り起こして、支えるという部分の重要さを知ったり。

 そもそも主人公がニュースソースを守るため、地味目に書いた記事が読者に読み取ってもらえなかったことから「最後の手段」に出たことで裁判沙汰になってしまったのだ。読み取るとか読み込むとかは受験のためにあるのではない。いろんな「規制」がある大新聞ではなく、ローカル紙や地方版を読むのも手かもしれない。蛇足ながら、Tくんは「もはや『東京新聞』しか信用できない」と言っていた。

 主人公は大新聞社のバックアップがあっても、叩き潰されそうになったが、でも名もない市井の個人が、いろんな時代、いろんな場所で国家と戦っている。彼らのことはめったに報道されないので、私たちはなかなか知り得ないのだけど、知ろうと思えば、(たぶん)マイナー雑誌(激減しているんだろうな、ミニコミ)やネット上で知ることも可能だ。

 しかもそんな市井の一個人は、『運命の人』以上にえげつないことを国にされても、断固引かない。むしろ組織に縛られない個人だからこそできるのだろう。村中のひとから変人扱いされ、電気も水道も止められ、ひとりぽつんと住むことになっても。

 いや、逆境になればなるほど燃えるのも人間だったりするのだし。

 2010年よりずっと前から、原発を作らせないために移転を拒んだ人とか、ダムを作らせないために村にひとり住み続ける人とか。
 ダムの人は、自然破壊や村を守るためというより、先祖代々の村人の墓を水没させないために過酷な戦いをしているといってたっけ。そういう人だっている。

 もしあれば、そういう人たちの聞き書き集みたいなの、読んでみたい気になってきたりして。 
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2012/8/30

『戦争がはじまる』  読書

 いつも読みかけで感想を書いてしまい面目ないのだが、いつ読み終えるのか、そもそも読み終えることができるのかもわからないので。

 3日前に福島菊次郎さんのフォトルポルタージュ『戦争がはじまる』を、元職場へ借りに行った。やはり誰も借りていない。マイナーな人だからな。

 駐車場に止めた車に乗るやいなや、エンジンもかけず、待ちきれなくて極暑の車内で早速ぱらりと適当に開いてみる。モノクロームの雑然とした世界が続く。

 いきなりヒロシマだ。国から見捨てられ極貧を生きる被爆者一家の写真たちだ。

 ・・・ヘビーすぎる。

 痩せた子どもたち。裸で横たわる被爆した苦しむお父さんは病の床で働けない。かさむ薬代。被爆してぼろぼろになったあげく亡くなったお母さんを弔う金すらない。実験用に解体される献体によって得た金で、やっと野辺送りをする。

 戦災孤児たちの施設は、厳しい規則に縛られているので、息をひそめるように暮らす子どもたち。それでも春がくれば彼らの表情はみちがえるように明るくなり、外で同じ施設の子たちと遊び回る。おもちゃは石だ。

 就職して施設を出たお兄さんがみやげ話を持って訪ねてくれば、子どもたちの表情に笑顔が咲き始める。でも施設の子らが貧困から逃れるため自発的に選ぶ就職先は自衛隊だ。貧困から抜け出すために。戦争によって親も財産も失った子どもたちが、ふたたび戦争のサイクルに組み込まれるのは、古今東西共通なのかも。

 貧しさのなかで、祭の浴衣を買ってもらい大喜びする少女など、ほっとするような写真もあるが、被爆して破壊された顔のアップや、被爆後広島で生まれて死んだ、まるで人類を告発するような怒りの表情の奇形の赤ちゃんとか、心臓が凍りそうになる写真だってある。
 怒りと絶望の間を、たまさか息をつきながら右往左往して頁をめくることになる。

 正直、ちょっと見ただけでも、かなりぐったりくる。「泣ける本」では泣かない私があっさり泣いてしまった。見た後は全くブログを書く気が失せてしまうほどに。こんなに酷いことがまかりとおっているのに、何をのうのうとしているんだろうと、ガックリくるのだ。

 でもフクシマ以降だからこそ、目を背けてはいけないと見続けることができる。それ以前なら、たぶん無理だった。

 「何もできなかったのなら、できないのなら、せめて『見ろ』!」という福島菊次郎さんの声が聞こえる気がした。
 あれもこれも素通りし、見て見ぬ振りをし、もしくは見ようとすらせず、見捨ててしまった幾多の犠牲者たち。その出来事のつらなりが、「今」に至ってしまったのだと。

 でもすっかりガックリした後には、しゃきっと背筋が伸びて気合いは入る。あの「元気をもらう」とか「がんばろう」とか前向き言葉オンパレードなメディアの、なんともいえない気色悪さと対極にあるものだったから。

 福島菊次郎さん撮ったドキュメンタリー映画『ニッポンの嘘』の予習のために写真を見とかなくちゃと思ったけど、これは受け取る方もかなり腰を落として気合いをいれとかないと、受け止めきれないかもしれない。ようし。

 私はこれからもずっとヘナチョコなままだろうけど、せめて「見ること」からだけは逃げないでおこう。
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2012/6/30

ブックス・メガラニカ  読書

 辺境作家あらためノンフィクション作家、 高野秀行さんのブログを昨年より毎日チェックしている。最近、大変気になった記事が宮田珠己ことタマキング氏の新刊、『はるか南の海のかなたに愉快な本の大陸がある』(本の雑誌社)についての書評だ。そして高野さんのこの本についての記事のタイトルは、「タマキングのおそるべき深化」。

 深化? 進化でなく?

 早速、図書館に予約をかけて、しばし待った後このあいだ借り出すことができた。けっこう学術的で、専門的で、さまざまなジャンルのマニアックな本たちの書評集だ。書評なので、一編が短い。2、3編読んで、ガテンした。

 ホントだ、とんでもなく深い! へんてこなものにかける著者の愛、そんな作者たちへのタマキングの愛ったら! そして当然、今回も笑いどころ満載だ。

 この本についての詳細は高野さんのすばらしい書評に譲る。まだ、ほんの20ページやそこらしか読んでないが、ヘンな本に目がない私は、じつはちょっと困ったことになっている。

だってこの本で紹介されているのは、まさに私のストライクゾーンにズビズバ♪と入ってしまうのだ。その数44冊! それらをすべて読破することは、諸般の事情により無理だろう。その多くを読まないままパパパヤ〜♪と息絶えるであろうことを思うと、たいへん無念だ。

 おまけに昔の間違った知識や誤解による記述の引用で、インプットされる知識は混乱状態だ。「新しい情報だけど、これ間違ってるものだしね!」 脳は、この新しい情報をどう処理すべきか困惑の極みだ。脳内は大混乱である。

 今日のブログのタイトル『ブックス・メガラニカ』は、『はるか南の海のかなたに愉快な本の大陸がある』の副タイトルだ。メガラニカって、怪獣の名前みたいだが、造語ではない。
 
 この本の「まえがき」によるとメガラニカとは、「西洋において古くから南半球に存在すると信じられていた巨大な大陸の名前」である。宮田さん独自のカテゴリーとして、「このメガラニカにならい、幻想であれ史実であれ、そんな世界があったのか、とエキゾチックな嗜好を満たしてくれる本を、個人的にメガラニカ本とジャンルづけることにした」そうなのである。そんな本たちを紹介した本。
 「まえがき」も1ページなのに、とてもいい。感動的に濃いし深いので、「まえがき」だけで早々に持って行かれてしまった。宮田さん、どうでもいい知識について、博覧強記すぎ(笑) ますます好きになってしまいますわ〜。
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2012/6/12

さよならは言わない。  読書

 どういうわけかスルーしてしまっていたが、先週H氏に教えてもらった。

「あんたが好きな作家死んだで。パソコンの横の本棚に並んでたの。ブラッドベリやったっけ」

 ああ、そうなんだ・・・とばたついているうちにダウンしてしまって、気がつけば彼が亡くなって一週間が経った。6月5日夜に死去された。享年91歳。

 薄情なようだが、あまりピンとこない。それは彼がとうに生前墓も墓碑銘も作っていたからで、私自身すでにもう彼は故人なんだ・・・と誤解していたフシもある。しかし、新作が出ていたんだからそれは違うだろうに。それ、自分、ちゃんと買ってるって!(未翻訳の短編だとおもっていたのかも?)買っただけで、読んでないのがバレバレだね。

 とはいえ、私の中学生、高校生時代に欠かせなかった人なのだ。今はなき満員の京阪電車で、まぶしい朝日を受けながらうっとりと、しかし現実には必死でページを繰っていた。『10月はたそがれの国』『何かが道をやってくる』『刺青の男』『太陽の黄金の林檎』。陰影に満ちて、ロマンチックで、ほろ苦くて、なにか刺さるものがあって、リリカルで。電車の揺れとセットで思い出す。

 はじまりはやっぱり、『たんぽぽのお酒』と『火星年代記』の名作2連発で、これでハマらなきゃウソである。

 その後、萩尾望都が『11人いる!』で大ブレイクしたのもあり、一気にSFヤローになってしまった。とはいえハードSFはやはり読めず、ブラッドベリから日本SFへと流れて行く。高校時代にはマイナーな雑誌売り場の片隅にあった日本SF専門誌『奇想天外』を、『薔薇族』や『さぶ』や『SMファン』(だったような?)を押しのけつつ、そのつど買って読んでいた。

 おかげで今もパソコンの横の本棚には『別冊奇想天外1981(年)レイ・ブラッドベリ大全集』が、ちゃーんといてくれる。久しぶりに開いてみて、目次をみる。

 えっ!? ブラッドベリについて書いている人たちの顔ぶれが、素晴らし過ぎる。だって星新一、小泉喜美子、中島梓、真鍋博、萩尾望都、新井素子・・・ですよ。

 『レイ・ブラッドベリの魅力を語る』という座談会には、小笠原豊樹(『火星年代記』の翻訳者) 川又千秋(ブラッドベリテイストの作風のSF作家、むろんブラッドベリアン) 萩尾望都(ブラッドベリの作品を漫画化もした、むろんブラッドベリアン)
 めまいがしそうに贅沢なラインナップだ。そこにブラッドベリのオフィスでの写真あり、作品リストあり、年譜あり、インタビューあり、短編あり、エッセイありで、もしかしたら、めまいどころか卒倒ものかも。

 ちょっと驚いてしまって長くなってしまったのだけど、まあ、それはいいとして。いいたいのはそれじゃない。

 かつて『モモ』を書いたドイツのミヒャエル・エンデが大ブレイクしたことがある。そのときはみんな一瞬立ち止まったのだと思う、この「忙し過ぎる世界を疑問に思う為」に、一瞬。
 けれど『モモ』に書かれていた警告は次の瞬間には無かったことにされ、いつしか、よりいっそう世界の悪化は加速してしまった。ように思う。もしかしたら、エンデはそれを残念に思っていたのではないだろうか。ファンタジーのひとだから。

 ブラッドベリも、世界にいろんな警告やアイロニーを発しているけれど、彼はもうずっと前から知っていたように思う。彼はSF作家だから。人間って、どうしようもなく、馬鹿だよねーっていうことが。そうだ、人間は愚かだから、殺し合ったり破壊し合ったりしている。それは充分わかっている。
 でもね、人間って、こんな素敵なとこもあるんだよね、地球ってこんな素晴らしいところなんだよねという部分も、しっかり肯定していて、人間が両面あることを知っていた人なんじゃないかとも思える。

 あきらめてるけど、愛している。

 日本のSFはブラッドベリの影響受けまくりだと思うんだけど、それはとても幸せなことだったと思ったのでした。

 というわけで、いまさらブラッドベリに、さよならは言わない。40年前も今も、私に取っては彼は同じスタンスだ。

 SFの詩人 彼岸にも此岸にもあり 水無月に
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