米岡元子の書庫です。
『太陽の子守歌』はじめノンフィクション、小説、エッセー、ショートストーリー、短歌、フォトハイクなど。
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2011/1/10
著書『風に乗って』へ収録《風に乗って》シリーズ
《風に乗って》17作
膳に在し鱒
その日は、桜の季節も終わりに近づいた月
曜日。
池亀ガーデンの親父は生け簀を眺め、僕達
を数え始めた。丁度油の乗った鱒も食べ頃の
僕達は、今日こそ逃げられないと悟った。
なのに、鱒学校で一番賢いと言われたギン
タが、なんとか逃げきろうと、生け簀底の石
の陰に隠れた。
親父は、網のついた長い竿の先で、生け簀
の中をかき回した。たちまち僕は、他の中間
と共に、網の中へ入り込んでしまった。
「うーん。手頃なのが一匹足りないなぁ」
ギンタは、親父の操る網を巧みに躱し、必
死に逃げていたが、だんだん疲れてきたとみ
え、ついに掬い上げられてしまった。
調理場から客室の方を見ると、膳が十二個
用意されている。包丁の刃に指の腹を当て、
切れ味を見た親父は、尾をバタつかせるギン
タを俎の上に乗せた。順番はすぐきた。僕は
俎に乗ったらすぐ先祖からの教えを守り、魂
を体から離した。親父にひと撫でされた僕の
腹は掻き切られ、内蔵の代わりに味噌を詰め
込まれた。化粧塩をふられ串刺し。
客は男が三人、女が九人。いずれも今が一
番幸福という顔つきで膳についた。
隣でギンタが目をむいている。恨めしそう
だ。きっとまだ、大海で泳ぐことを諦めきれ
ないのだ。分を弁える他の仲間は、静かにし
ている。
「美味しいわ、最高」
「本当ね。生きがよくて」
十二人の客は賑やかに、思い思いの話題に
花を咲かせている。
休みなく動く箸で、いつの間にか頭と骨だ
けになった僕は、急に寒気を感じた。
窓の外で、若葉に追われた桜が散り急いだ。
高僧の大悟
「うーむ。我と我が身ながら、よくもこんな
に堅くなってしまったものだ」
人気の無い本堂に、微かに物を削る音がす
る。呟きは、舜義上人の納まった、ガラスケ
ースの中からだ。
即身成仏となり、妙法寺に眠る舜義上人が
幾多の歳月を経て、再びこの世に戻り出た時
を想像しての入定だったが、数百年も後に、
己の悟り違いに気づいた。
自然界の法則に忠実な生き方をし、また衆
生を説き歩いた己が、生きながら石棺に入る
という、全く以て、自然に反する最後の形を
とったのである。万物、リサイクルの世の中。
どんな生物も、己の死は他の生への恵みであ
り、それが自然界の法則と、心得ていた筈で
あった。
せめてもの慰めは、図らずも衆生の仏心を
起こす役に立っていると思えることだ。
舜義上人は、人々の出入りが無くなる日暮
を待って、少しずつ我が身を削ることに精を
出した。念力は、僅かばかりの速度で身を崩
していった。
「うむ。昨夜もほんの僅かしか削ることが出
来なかったな。この分だと、後五十年や百年
はかかるかもしれない。それにしても、何れ
は影も形もなくなる時が、必ずくるだろう」
塵となって虫の餌になる時が、本当の己の
最後と悟った。
今日も、数人の善男子、善女人が跪いた。
気味悪そうに見る者。怖そうに拝む者。中に
は、上人の本当の心を読もうとする者。
一切の雑念を払い、身を堅くして、悟られ
ぬよう鎮座した。
「平安な心、良心を欺かず、念ずれば現ずる。
自然の恵みに感謝。・・・・・・どうぞお線香を」
妙法寺の住職が、いつものように言った。
泥の中
泥に足を取られてひっくり返った。
手をついた所からズルズルと、ぬかるみに
はまり込んでいく。腕の付け根まで引き込ま
れた時、隣の奥さんが通りかかった。
「奥さん。お願い。助けて」
「ごめんなさい。わたしこれから出掛けるの」
隣の奥さんは、泥でも引っかかったら困る
とばかり、遠回りして行ってしまった。
泥の中には捕まるものは何にもなく、踏み
とどまる物もない。全身が深みに入っていく。
顔の造作を全部集めるほど、力を入れて目
をつぶった。侵入してくる泥を吸い込まない
ように、鼻の穴を閉じて、息を殺した。
苦しい状態の中で、フワリと体が楽になっ
た。体が楽になった時、思いきって目を開け
て見ようと思った。
泥の中は、どんなに汚く冷たいものか、見
てみたいという気がして、目を開けた。
ドロドロのヌメリは、初めは気持ちが悪く
目の端から入り込んで、何も見えなくしてし
まった。目をしばたくと、ジャリッと音でも
するように動く。堪え切れなくて、息を吐
いた。
行ってしまった隣の奥さんが憎くなる。
花が咲いている。見たことのあるような形
の花。泥の中なのに、汚れていない。薄い水
色の花びらは、八枚で、手のひらほどの大き
さだ。風でも吹いているように揺れて、ほの
かな匂いを出している。私の吸い込んだもの
の中にも、漂っている。
固くなっていた体をほぐしてみた。ゆるく
なった腕を広げ、泥水を体中の血管に送り込
んで見たくなった。
隣の奥さんが肥えた足でスキップを踏んで
きた。ぶら下げた袋から真珠の粒が転がり落
ち続けていた。
蜘蛛 《くも》
梅林入口の駐車場に車を止めた。
秋の梅林って、どんなものなのだろうと思
いながら入ってゆく。山の南斜面の梅林には、
人影もなく梅の葉がわずかに残っている。
梅の枝に張った蜘蛛の巣に、揚羽蝶が一匹
かかっていた。蜘蛛の糸に絡んだ手足を動か
し、羽をふるわせている。
私はベタつく糸を端からちぎった。やがて
蝶は、二、三回羽ばたくと舞い上がり、梅の
葉をかすめて飛び去った。
気がつくと私が蜘蛛の糸に巻かれていた。
光る網の向こうに、四、五センチもありそう
な蜘蛛がいる。細い糸が徐々に私の体を締め
つけてくる。
梅林の坂道を男が登ってきた。「助けて」
と言う私の声に男は立ち止まった。が、私は
あとの言葉を続けなかった。これから何をす
る予定も、どこへ行く気もなかったからだ。
男は目の前を素通りして行った。
私は全身の力を抜いて、蜘蛛の巣に体を預
けた。つま先は地面に着いている。膝を曲げ
た。体が宙に浮いて揺れた。私は体を揺れる
にまかせた。
眼下に広がる田園は、冬支度をしている。
陽を浴びて、もみ殻焼きの煙が一直線に空に
向かっている。三つ二つ浮かぶ雲に誘われる
ように、どこまでも高くのぼってゆく。
音もなくヒコーキ雲が空を横切り、西の方
へ消えていった。
視線を移すと、つくば学園のビル群が緑の
中に立ち並んでいて、白い日差しを反射させ
ている。
茶褐色の蜘蛛は、梅の枝に張った糸を端か
ら食べはじめた。
私の体の周りの糸も、いまはあらかた食べ
つくされた。
プラスチック
プラスチックの部品らしいものが落ちてい
た。楕円形の鉄紺色で、厚さは五ミリ位。楕
円形の長い方へ、中央よりやや端に、二つの
十円玉ぐらいの穴が三センチほどの間隔を空
けて開いている。
拾うと私は、プラスチックを顔に当ててみ
た。二つの穴が丁度目の間隔に合っている。
安田製作所の脇の道から土手が見える。
土手の上の犬を連れたじいさんが、こちら
を向いた。
「おはようございます」と言う。
私は同じように返事をしたが、言葉が耳の
奥で反響した。
「おや、今日はご機嫌が悪いようですね」
じいさんは冷やかすように言うと、犬に引
っ張られながら「では」と会釈をして歩きだ
した。
「ポチ。バイバーイ」
じいさんの先を行く犬に手を振った。
ポチは振り向くと、牙をむき出して低くう
なった。
「早起きは、気持ちがいいだろう」
家に帰ると、起き出していた夫が言う。
「うん、いいわよ。あなたも歩いてみたら」
私は、プラスチックを顔に当てながら言った。
「なんだいそれは。面みたいに見えるけど。
それに、言うことがきついな」
夫が真顔になった。
「安田製作所の側で拾ったのよ。面白いでし
ょ」
「冗談じゃないよ。何を言っているんだ。怒
るぞ、俺は。いいかげんにしろ」
私は驚いて、プラスチックを外した。
「なんだ、お前の顔は」
時刻表
テレビの天気予報を見ていた夫が「今夜半
から雪が降るって」と言った。
「子供達は成人したし、住宅ローンは終わっ
た。喧嘩もしたがまずまずの生活だったな」
つぶやきながら夫の視線が、壁のカレンダ
ーからその下のJRの時刻表に移った。
翌朝。私が目覚めたのはいつもの六時半。
既に、夫はベッドにいない。
階下の居間のファンヒーターにスイッチが
入れてあった。部屋は温まっている。
私は部分入れ歯の夫のために、鍋に湯を沸
かす。温野菜のサラダとゆで卵を作る。バタ
ーロールとミルクティを用意した。
新聞はいつも夫が取りに出る。だが、一向
に戻ってくる気配がない。
廊下の雨戸を開け、玄関のドアを開ける。
雪が五センチ程積もっていた。
玄関から通りに向かって、雪に靴跡が続い
ている。確かに夫の靴跡だ。靴跡は通りを横
切りJRの駅に向かっていた。
八時五十分。夫の会社に電話をかけた。
「今日は、休暇届けは出ておりません。もう
じきいらっしゃるでしょう。出社しましたら、
ご自宅へお電話させます」
総務部の男性が言った。
何の言葉もなく出掛ける事のなかった夫。
「そのうち帰ってくるよ」と息子が言ったが
夕方になっても連絡はない。私はもう一度会
社に電話をする事にした。プッシュボタンを
押しながら、何気なくカレンダーに視線がゆ
きその下の時刻表に移った。
指で辿りながら見ていくと、上野発下りの
二番列車の部分に(雪)の字がついている。
臨時急行列車。行き先の欄が空白だ。
私は、夫がこの列車に乗ったことを確信し
た。
平衡感覚
大きめのコップに氷をいっぱいに入れる。
ボトルからウイスキーを注ぐ。
つまみ袋の口を切る。
部屋の明かりを消す。通りに面したカーテ
ンを細く開ける。
街灯が明るい。遠くをバイクが走る。マフ
ラーがバリバリと音を立てる。
液体を一口流し込む。喉から食道、胃の壁
が焼ける。ピーナッツを噛む。
白い乗用車が通り過ぎる。
もう午前二時だ。
外の明かりに、コップを透かして見る。濃
いめの水割りが半分になった。
柿の種とピーナッツを一緒に口に入れる。
立ち上がり、キッチンの冷蔵庫から氷を出
す。コップにいっぱい入れる。
窓側に戻ると、ウイスキーを注ぐ。
また喉に流し込む。
幾晩も同じ行動をとっている。
体が熱くなってきた。立ち上がる。平衡感
覚が狂いはじめている。息を吐く。
「何をいらついているの」
問いかける。
問いには答えない。ただ「バカ、バカナヤ
ツ」と呟く。酔いが回る。
「どうでもいいか」自分の声が響く。
タクシーが停まる。男が降りた。こちらに
歩いてくる。カーテンを閉じ寝床へ滑り込む。
玄関の鍵が開く。階段を足音が上がる。
ドアが開き、黒い影が入ってきた。
窓側に寝返った。
一瞬、影が動きを止めた。
みんなに祝福されてから、二十八年目に突
入しようとしている。
この家の、平衡感覚が怪しげになってきた
のを、ヤツは知らない。
入国手続き
星屑の砂浜に、二十歳前後の男女が打ち上
げられた。陽はすでに高くなっている。
女は眉を寄せて、薄く目を開けた。男は女
の気配で気がついた。
二人を取り巻いていた大勢の若い男女が、
気がついたのを見ると、
「ようこそ、ようこそ」と、歓声を上げた。
「入国手続きを。あなたの忘れ物を書いてく
ださい」と、早速のっぽの若い男がペンと用
紙を持ってきた。
「忘れ物をですか」
二人はおかしなものを書かせるなと、顔を
見合わせた。
女は『もう一人の息子』と書き、男は『父
と弟』と書いた。
取り巻いていた若者達は「これでこの国の
住人さ」と、囃子立てた。
ブーゲンビリアの向こうから、一斉に音楽
が鳴り出した。誰とはなしに踊りの輪が広が
り、果てしなく続いていった。
女は女の館に住み、男は男の館に寝起きし
た。みんな何の欲も持たず、平和な日々が過
ぎていった。
西風の強い日が続いた。
星屑の砂浜に両義手と両義足が打ち上がっ
た。少し離れた所に、赤い運転免許証が打ち
上がり、それにはターシャ、ノマヤ、六十歳
とあった。そしてそれより北に百メートル行
った所に、身体障害者手帳が砂にまみれてい
た。手帳には障害一級。ジミー、ノマヤ、三
十歳とあった。のっぽの男が、椰子の葉で作
った袋に拾い集めると「もうこれは必要ない」
と言って持ち去った。
貝殻のような、同じ形の爪をした二人は、
永遠の若さの代わりに『もう一人の息子』と
『父と弟』を暫くの間、忘れることにした。
真昼の宇田踏切
宇田踏切の警報機が鳴り出したのでブレー
キを踏んだ。上りの矢印が、赤く点滅してい
る。開かずの踏切の異名を持つ程に、一旦鳴
り出すと、なかなか通れない。
向こう側で、くわえ煙草の五十がらみの男
が、貧乏揺すりを始めた。
私は、下り方向を見た。まだ列車の姿はな
い。いつもなら、すかさず下りの矢印も点滅
するはずなのだが。
男に目を移した時、その姿は踏切内に入り
線路を歩き出していた。枕木を確かめるよう
に見ながら急いでいる。
百メートル先の、広地川の鉄橋に向かって
いく。列車が線路を震わせてきた。
「あぶないっ」
私の叫び声など聞こえるはずもなく、鉄橋
を渡りだした男が、上り列車に巻き込まれた
ようだ。列車は私の目の前を、速度を落とさ
ずに走り去った。
「どうしよう、警察に、で、でんわ……」
私は、震える手でドアを開けようとした時、
鉄橋の上で人影が動いた。枕木に掴まって鉄
橋にぶら下がってでもいたのか、這い上がる
ように、体を起こした。腹や膝の汚れを手で
払った男は、また歩き出した。
ブレーキを踏み込んでいる足をはずした時、
再び、警報機が鳴り出した。
私の乗った車を揺り動かして、上下の列車
が通過していく。
「中高年の失業者が増え、再就職の難しい時
代となった」と、カーラジオから聞こえてきた。
やっと、警報機が鳴り止んだ。
さっきの男が、真新しい煙草をくわえて踏
切を渡り、私の車の横を通り過ぎて行った。
私は、バックミラーの男の背を見送った。
ワッカノナゾトキ山
先頭はサダジロウ先生だ。その後に十人ばか
り繋がっている。みんな前の人の上着を掴まえ
ている。あたしの後ろのタッちゃんは、あたし
の三つ編みの髪を握って「なぁヨリコしっかり
行けよ。おまえドジだからな」と言った。先生
は時々後ろを振り返る。タッちゃんの手までは
見えないみたいだ。
「この列車は、今日はワッカノナゾトキ山まで
行きます。すこーしスピードを出しますから、
みんなしっかり掴まるように」
先生は腰を低くして走り出した。みんなも走
る。あたしも走った。
校門から田んぼ道を突っ走る。マイマイ川の
木の橋を渡ってササクレ坂を登る。
先生は、定年間近だけど若っぽい。少し長め
の巻き毛をなびかせて、息も切らずに登って行
く。みんながしがみつく。タッちゃんは、あた
しより歩幅が大きいものだから、その頃にはあ
たしと並んでいた。
「ヨリコ置いて行くぞ」
タッちゃんはあたしを追い越し、前のナツミ
の袖に掴まった。あたしは仕方なくタッちゃん
の上着に手を伸ばした。タッちゃんの上着が脱
げた。あたしは握ったまま転んだ。起き上がっ
た時には、みんなはずっと先を走っている。み
んなの足が宙を飛んでいるように見える。
ワッカノナゾトキ山の頂上の、木のない所に
秘密があるらしいけど、今のところ先生しか分
からない。今日、探ろうと思っていた。
あたしは、みんなの後を追いかけた。タッち
ゃんに、上着を届けるしかない。
ワッカノナゾトキ山の向こうに、同じ山が見
えた。その山の向こうにまたワッカノナゾトキ
山があって、その山を、先生を先頭にみんなが
登って行ったらしい。
風に乗って
「行くのか」夫が庭から見上げて言う。
「そのつもりよ」両手を動かしてみる。
「母さん。自分の体力をよく考えなきゃ駄目だ
よ。行くのはいいけど」
夫と並んで見上げている息子が怒鳴った。
「大丈夫よ。練習はしたわ」
「どんな練習をしたんだ」
夫の問いには答えず、両手を上下する。
「帰りはいつになるの」
息子は半ばあきらめた言い方をした。
「出たものは当てにしないで」
屈伸運動をする。ジャンプの姿勢になる。後
は、思い切るだけだ。
私は屋根のてっぺんでバランスを取っていた。
冬空は雲もなく澄み切っている。隣家の屋根の
向こうに筑波山が見える。筑波山の西に富士山
が見えるはずだ。五合目辺りまで雪だろう。富
士山の真上を通って、日本海まで行って大陸に
渡る。おっと、そうじゃない。行き先は南半球。
ミクロネシアの無人島。真っ青な空。白い砂。
そして……それから何があるのか知りたいのだ。
「誰もいないぞ」夫が叫ぶ。
私は北風とタイミングを測る。
「ねぇ、カウントして」
庭の夫に頼む。
「良いか、いくぞ。3,2,1,0」
私は屋根瓦を蹴った。
体が浮いた。全力で羽ばたく。
「母さん。しっかり飛べよう」
「おい。スカートが引っかかっているぞ」
振り返った。テレビアンテナを固定する針金
に引っかかっている。屋根のボルトに巻き付け
た切り端にだ。片方の手でスカートをはずそう
としたがはずれない。私は、屋根に引っ張られ
たまま、空を掻き続けた。
都会の空間
都庁第二庁舎前の三十階建てのビル。以前来
たことのある新宿モノリスビルの隣だ。
迷うこともなく来られた。入っていくと、フ
ロアーが薄暗い中に広がっている。真上に吹き
抜けている空間の壁に、大時計が長い針を動か
していた。
私は三階にある東洋医学研究所を捜した。
三年前の夏エアコンで冷やした体。それから
ずうっと左半身が痛く、悩まされていた。新聞
の記事で知った鍼灸を試してみようと思った。
電話予約をしていたので、十一時前には受付を
済ませるつもりだ。
吹き抜けを取り巻くように通路が続いている。
所々にあるドアにはそれぞれの事業所の名称が
ある。確かめながら歩いていると、東洋医学研
究所の文字があって矢印が見えた。
「あらあったわ。ここだわ」と言いながら七
十歳位のおばあさんが私の前を遮った。矢印に
沿って歩いて行く。おばあさんは少し足を引き
づっている。きっと神経痛か何かなのだろう。
前を歩くおばあさんは早足だ。私は当然の
ように続いた。何度か矢印の赤色が目の端を
通り過ぎた。
長時間歩いたような気がする。時計を見よ
うとしたが、私の腕には時計がない。
おばあさんはトイレに入った。私はトイレの
入口で待つことにした。
いつまでもおばあさんは出て来ない。暫くの
間待ってから、なぜあのおばあさんを待ってい
るのだろうと思った。おかしな先入観で後に従
って歩いたのかもしれない。
東洋医学研究所の受付に立った時、すでに
待合室の時計が午後三時を過ぎていた。
私はおばあさんの狸の様な目を思い出した。
疲れと、空腹が押し寄せて来た。
隧道
微かに光が差し込んでいる。女はゆっくりと
歩いていた。迷い込んだ時の焦りはない。小声
で歌さえ唄っている。
「カッカッ」
気ぜわしい靴音が後ろからした。
痩せた男が、湿った臭いのカバンを小脇に抱
え追いかけてきた。
「あのう、待って下さい。よく歩調を乱さずに
歩けますね」
「あなたは、この遂道に迷い込んで間がないの
でしょう。目が慣れないだけですよ。わたしも
最初はそうでした」
「一緒に歩いて頂けませんか」
「わたしの出口が見えてきました。ほら、この
先に光が微かに見えるでしょう。あれがわたし
の出口なのです」
「えっ……。僕には見えません。ただ、あなた
の姿がぼんやり見えるだけです」
「ここでは、出口がみな別々なのよ。あなたの
出口は、ご自分で探さなければね」
男は、闇に手を泳がせた。
「いま、何時ですか」
「ここには時間なんてないですよ」
「ない・・・・・・?」
「ええ。楽しい事も、嬉しい事も、あなたなり
にどうぞ」
「僕なりに? 僕はそれどころじゃない。この
カバンに一時も早く明るい陽を当てたい」
男は、顔を歪めた。
カビの生えたカバンは男の腕の中で変形し、
破れた皮の間から、ビッシリと活字の印刷した
書類がはみ出していた。
女は、佇んでしまった男に言った。
「出口を探すには、まずこの闇に慣れる事ね」
闇色にじっとりと染まった女は、ゆったりと
歩いて行った。
村興し、かがいの夜
「今夜、オラと過ごすっぺよ」
若い声は、トメの耳元で囁いた。
後ずさりするトメを、若者は笑った。
「可愛いいね。何も怖い事は無がっぺよ」
じいさんが逝って二十年。ましてや、若者の
側にいると思うだけで、口が利けない。
「あれれ、随分手が荒れてるようだけど、き
っと働き者なんだっぺね」
トメの手の甲を撫でながら、若者は言った。
その手は背に回り、指はトメの髪を梳いた。
若者の村離れと、農家の嫁不足解消に役立て
ようと、数十年ぶりに、村をあげての暗闇祭り
が行われる。
孫娘が出かけ、亡き息子の嫁が出かけると、
トメは落ち着かなくなった。
『年甲斐も無く』何度も呟いてみたが、どうに
も騒ぐ気持ちを抑え切れない。
タンスに眠る娘時代の着物を取り出すと、胸
高に帯を締めた。嫁の化粧品をちょっと借り、
後ろに束ねた白髪を、解き垂らした。
五大力堂は数本の灯明だけで浮かび、詣でる
人々の顔は闇に慣れた目にもはっきりとは見え
ない。せかされるように山門に立ったが、気恥
ずかしさが後を追ってきた。
『やっぱり帰っぺ』引き返そうとしたトメの腕
が、逞しい手に掴まれた。
「長い髪だね。美しい髪なんだっぺね。明る
い所で見たいな、お堂の方へ行くっぺよ」
トメは、闇の中で慌てて頭を振った。しどろ
もどろの言い訳をすると、一目散に我が家に逃
げ帰った。
「じいさん、ほんの出来心だっぺよ、許してお
くれ。あの頃の祭りを思い出してよ。それにし
ても、若いという事はいいものだなぁ」
仏壇の前にペタリと座ったトメの、鳴らす鉦
の音は高かった。
虹色の紙筒
売り場の一角に女性が群がっていた。アクセ
サリーのショーケースを取り囲んでいる。
若い男の店員が品物の説明をしながら、持っ
ている直径十二、三センチで長さ七センチ
位の虹色をした紙筒を、ショーケースの上で二、
三度回したり、左右に振ったりしてから
飾るようにケースの端に置いた。
「こちらのピアスを見て下さい。今日は五パー
セント引きでお求めできます」
男性店員は、ショーケースの千円台から十万
円台までのピアスが並んでいる中から、数
点を取り出した。
店員の青白い右手の小指には金のリング、薬
指には金と白金の二連のリングをしている。ケ
ースの上に並べた中から、ルビーのピアスを一
人の中年女性の耳の側にかざしてみせた。
中年女性が鏡をのぞき込んだ。
「お顔が引き立ちますよ。如何ですか」
みんながピアスに気を取られた。
私の隣にいた茶髪の若い娘が、ケースの端の
紙筒をひき寄せた。店員は目の端で見たようだ
ったがピアスの説明を続けている。
若い娘は筒をいじっているが、そのうち右手
を入れたり出したりしていた。私は店員の唇の
端が笑ったような気がした。
若い娘は間もなくピアスを買っていった。
店員は、一番高いダイヤのピアスをケースの
上に出した。片方一カラットあると言う。
私は虹色の紙筒が気になっていた。手を伸ば
し、紙筒を手に取った。ブレスレットだ。腕を
差し込んだ時、紙筒が締まった。軽く掴まれた
ような感じだ。
ダイヤのピアスが欲しくなった。財布を出し
て所持金を数える。買える金額は入ってはいな
い。その時「着払いという方法もありますよ」
と言う声が聞こえた。
川下り
「ねぇ、波が高くなったと思わない?」
少し離れたところで夫は鼻唄混じりだ。
「ねえったら」
「ああ、わかってるよ。さっきから風が強くな
ったんだ」
夫はゴルフクラブを二、三本乗せていてパタ
ーを器用に動かして舟を漕いでいる。
「やっぱりこれじゃあ駄目かしら」
私は木製の櫓を流そうとした。
「おいおい、まてよ。その前にクラブを貸して
やるから漕いでみなよ」
夫の投げてよこした五番アイアンを使って漕
いでみる。水を切るだけだ。
「ねぇ、何でこんなもので漕いでいるの。何で
あなたに漕げるのよ」
「俺の一番好きなものだからだろ」
息子と嫁は二人ともスキー板で漕いでいる。
嫁が前で息子がその背に体を押しつけて、掛け
声をかけながら力を合わせている。
「スキー板は漕ぎやすい?」
「まぁね。やり方一つかな」
「スキー板でやって見ようかしら」
「慣れるまで大変だと思うよ」
息子は別にスキー板を貸すつもりもないらし
く、「ヘイホー、それヘイホー」と追い越
していく。夫を見ると余裕があるのか、時々
クラブを交換したり、磨いたりしている。
私は櫓を片方の手で握ったまま、何か良い
物はないかと舟の中を見回した。
「おい、焦らずについてこいよ。ゴールはま
だ先さ。そのうち追いつけばいいよ」
夫はそれだけ言うと、両岸の風景を楽しん
でいる。そして、少しずつ遠のいて行く。
私はこんな競技に参加したのを悔やんだ。
川幅は広くなっていた。風も一層強くなって
きた。漕がなくても舟は流されている。
子供たち
突然舞い込んできた葉書の住所が取手市にな
っている。マンションは県西に伸びる国道沿い
にあった。実家の寺を飛び出したとか、結婚し
たとかの噂を聞いていたが、玄関の表札は旧姓
の新谷と出ている。
「元気? あたしは元気よ。いろいろあったけ
ど、幸せ。あなたが近くにいるの知って、ハガ
キ書いたの。ええ。今翻訳の仕事をしてるわ。
嫌いだった英語が役立ってるってわけ」
新谷優子は笑顔だった。
「子供? うん、三人。男女女。紹介するわ今
日はみんないるから」
奥の部屋の子供たちに、大声で召集をかける。
間もなく子供たちがやって来た。
「長男のレオナルド・正男。長女のシンシア・
香織。次女の里織」
三人は笑顔で挨拶する。レオナルド・正男君
は金髪にブルーの瞳。シンシア・香織さん
は、黒のちぢれ毛に金茶の瞳。里織ちゃんは栗
毛に黒い瞳だ。
「驚きの顔ね。みんな私が産んだ子よ。父親は
それぞれ違うわ。里織は純粋の国産よ。あ
ら、ちょっとへんな言い方かしら。うふふ」
優子は、慈愛のこもった目で子供たちを見や
る。六年生の里織ちゃんを引き寄せ、肩を
抱いた。
「もうじき新しいパパと一緒に暮らすのよね。
四人目がおなかの中なの。今度? 日本人よ。
もう、これが最後よ。あなたは、どうなの」
「私は、障害児と健常児」と言いたいセリフを
のみ込んだ。
あの頃拾われっ子と噂されていた優子が、
「子供はねぇ、授かりものだから大切に育てな
くちゃあ。自分の手でね」と言った。
寺の門柱に寄りかかって、上目遣いで見る癖
は、もうなかった。
投稿者: 太郎ママ
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