2018/11/23  16:48

あのとき岩櫃城へ行っていたなら・・・  上州群馬をゆく

時は天正10年(1582年)の2月の夜。真田昌幸さんのところへ秘密の手紙が届く。

”武田家はもはや滅んだも同じ。わが織田家は武田家とは長く戦い続けているが敵は武田勝頼のみであり、家臣に恨みはない。もしも貴殿が武田家を離れて織田家に降伏するならば、沼田城、名胡桃城、上田城、岩櫃城は安堵し、家臣として召し抱えてもよい。 - 署名:織田信長、織田信忠”

とのこと。しかもあのろくでもない穴山梅雪@武田家親類衆筆頭(汗)の添え状つき。真田昌幸さんはこの手紙をもって武田勝頼さんのもとへ会いにゆくのですよね(・・; 武田勝頼を裏切ることはできないから、自分の領地である岩櫃城へお連れするのだ!って。天嶮の岩櫃城ならたとえ4万人の織田軍相手でも、籠城してチャンスをうかがえると。

そこで、岩櫃城へゆくことができなかった勝頼さんの代わりにわたしが行ってきました(・・;

このあたりはまだまだ入り口付近で、本丸はもっと上にあります。そこよりもさらに上に二の丸があるという珍しいつくりになっています(うちらは入り口とスタンプまで)。

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今では道が整備されていますが、400年前の当時はかなりの山道だったと思います。

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お城にひたすらこもることを籠城と言うけれども、これは「食べ物」と「水」の2つが無くては全然意味がなくて、すぐに落ちてしまう。でも岩櫃城はかなり広い面積な上に、この山を包囲することは不可能。しかも野菜や水などもお城の敷地内で入手できそうなので、ここに籠城すれば1〜2年は持つかもしれないという雰囲気。


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でも運命とはどうしようもないもので、武田勝頼は結局この岩櫃城へは行かずに、小山田信茂という家臣の守るお城・岩殿城へ落ち延びます(噂では勝頼軍はもはや500人くらい)。しかもそこで裏切り(小山田信茂の家臣の独断によるものだったとか)にあって、天目山へ退避。わずか20人くらいとか。古代中国の時代に、劉邦に破れて落ちのびた項羽みたいな状況です。

岩櫃城へ向かっていたなら・・・。歴史は少しは変わっていたかもしれない・・・。ただ、どちらかというと勝頼から信用されなかった真田昌幸さんこそむなしいよ><

続100名城「岩櫃城」にて。

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参考資料:
真田三代、武田勝頼、真甲陽軍鑑


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