1988年 デビュー
1999年 活動休止
2004年 クレヨン社ってまだいたの?
2010年 クレヨン社はここにいる。
2020年 公式 クレヨン社は『まだ』ここにいる。
以降、細々と現在に至る。
拍手コメントにクラウドファンディング返礼品のコメントを書いてくれたみなさん、ありがとう!
クレヨン社限定CDに関しては、一様に感激してくれてるようで、新たにレコーディングした甲斐があったと改めて実感しております。
しかし、クレヨン社グッズに関しては「ずいぶん待たせたにしてはイマイチ」という声が約2名ほどありました。
さらに「ブックレットが入ってないけど?」という意見も1名様からいただきました。
これはイマイチのような次元とは違って由々しき問題なので、早速マデニヤル株式会社の高橋晃浩氏に問い合わせて、以前のように問い詰めてみました。
高橋晃浩氏によると、ブックレットが封入できなかったことに関しては、なんだかんだと複雑な事情があって、なんだかんだと同情できる理由もありました。
しかし、事情や理由はどうあれ、封入されべきものが封入されていなかったことに関しては、クレヨン社としてはファンのみなさまに誠に申し訳なく、このまま看過するわけにはいかなくなりました。
そこで、熟慮の結果、ブックレットのためにクレヨン社がクラウドファンディング用に寄稿したQ&Aを、そのまま、このブログに紹介させていただくことにします。
ライターでもある高橋晃浩氏が、寄稿文を短く編集してくれるとのことで、文字制限を無視して長々と(特に柳沼)寄稿しましたが、編集前の原文のママの原稿を以下に掲載させていただきます。
クラウドファンディングに参加されたファンのみなさまには、これでなにとぞ溜飲を下げていただければ、幸いでございます。
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Q1 クレヨン社二人の出会いは?
柳沼
高校2年のある日の放課後(いわき市の)平二丁目付近から聞き慣れない大音量の音楽が聞こえてきたんです。
それは私が初めて目にした「エレクトーン・デモ演奏」でした。
そこはキクヤ楽器店さんの店頭で、でっかい音量のわりに演奏者はやけに恥ずかしそうにしてる、パッと見「栄養状態のいいロッドスチュワート?!」…それが最初に見た加藤秀樹です。
私は遠目に見物してた通行人の一人でしたから、もちろん加藤は知らなかったでしょう〜!
外国人が珍しかった頃で、私は内心「おやおや〜…彫りが深い顔だよ〜…日本人じゃないのかな?どっかの宣教師…?…ではないよなぁ…」なんて思いながら見てましたね。
それから少し経って、注文していた品を楽器店に受け取りに行ったら、新顔の店員さんがいまして、それがあの「なんちゃってロッドスチュワート」だったんです。
当時アマチュアミュージシャンの登竜門、ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)があり、地元の楽器店が受付店でして…。
私はギター弾き語りを地味〜にやってる女子高生でしたから、いろいろお世話やサポートをしてくれた楽器店の店員さんたちは、音楽の夢を応援してくれる心強い存在でしたね。
地元でのこの出会いがこれほど長いご縁になるとは…!
加藤
この続きは、クレヨン社公式ブログ・クレヨン社は「まだ」ここにいる→プロフィール→クレヨン社夜明け前、よりご覧ください。
Q2 クレヨン社の名前の由来は?
柳沼
一緒に音楽活動を長く続けてからデビューすればグループ名もあったんでしょうが、私たちの場合、試しに1曲コンテストに応募してみたら奨励賞で、気を良くして翌年もう1回応募してみたらグランプリ!そんなんでデビューが決まってしまったので当然なにも考えていませんでした。
グループ名が必要だということになり、デビューが決まり先ずやった事は姓名判断の本を買うコトでした!
いくつか吉数っぽいのを適当に作り、当時のディレクターに見せたら、あっさり「コレでいいんじゃない?」と即答されたのが『クレヨン社』…
他の候補名はすっかり忘れましたが、もうちょっと気取った名前もあったはずですがーっ!
デビュー後、私らを更に追い詰めたのが「グループ名の由来」…!
いつでもどこでも何度でも、必ず聞かれたんです!
「姓名判断などと正直に言ってはイケナイ!」ときつく言われ…苦し紛れになんとか考えついたのが「クレヨンのようにいろんな色の音楽を届けられるように…」だったんです…。
これは墓場まで持っていかなければならないクレヨン社トップシークレットでしたが、もうヤケのやんぱちで暴露しますっ!
でもこれだけ長くクレヨン社をやってこれたので結果的に良かったのでしょう。
加藤
ラジオ福島の番組に出演してたころ「クレヨン社」をもじって「クレーン車」というラジオネームで投稿していた男子高校生がいました。その名は高橋晃浩。このアルバムのプロデューサー。
Q3 二人の音楽のルーツは?
柳沼
私の習い事はオルガン教室とピアノ教室をチョビっとかじって飽きちゃいまして、中学までの音楽の授業も適当にやり過ごしたうえに高校では音楽を選択すらしなかったので、ちゃんと学んだ事ないんです。
歌謡曲くらいしか聞かなかったのでルーツと言うならやっぱり歌謡曲でしょうかね。
あと中学生になった頃に、荒井(松任谷)由実さんや中島みゆきさんが新しい歌の世界を見せて下さった事が、音楽に憧れるキッカケになったと思います。
加藤
「ひょっこりひょうたん島」「トルコ行進曲」「星条旗よ永遠なれ」「交響曲第5番」「ヘイジュード」「FMfan」「多重録音」「D800」「キクヤ楽器店」…詳しくはクレヨン社は「まだ」ここにいる→プロフィール→少年時代、よりご覧ください。
Q4 グランプリは想定内?
柳沼
想定してたら先にグループ名を決めてからコンテストに応募したでしょうね。
なにせデビュー前に加藤との音楽活動が「受賞曲の2曲しかない」=「楽曲のストックが他にない」でしたから、グランプリからの〜→アルバムデビューだなんて、レコード会社さん無謀っていうか…、マジですか?狂気にも似た賭け?みたいな…、バブル期だからこそ起きたなんかの間違い的な?…それを私は「'88年の奇跡」と呼んでいます。(誰にも言われないので自分でね…)
加藤
想定してないけど100万円欲しいとは思ってた。
Q5 二人のデビュー後の変化は?
柳沼
私の方は勤めていた会社のご厚意で「二足の草鞋を履く」状態にさせてもらったんです。
当時の流通大手の本部でティーンズ服飾雑貨(鞄、靴下、アクセサリー、小物など)の仕入れの仕事でしたから、すごく楽しくて続けたかったですし…、職場の皆さんにはホント良くしていただきました。
有給使ってリハーサルやコンサートや地方の仕事、退社後はレコーディング、通勤時間と休み時間は曲作り…、そんな感じで私はOL生活+αでしたが、加藤はデビューによって各種アルバイト生活からの脱却となる大転換期でしたね。
加藤
おかげさまで、デビューしてから現在に至るまで、働いたという記憶が一切ない(音楽を作ることが仕事と思えないから)
Q6 デビュー後の一番いい思い出と大変だった思い出
Q7 コンピレーションアルバム収録曲「痛み・2004」については?
柳沼
1stアルバム『オレンジの地球儀』は殆どが会社勤めしながらの曲作りでした。
「痛み」の1番は学生時代を振り返るシーンで、2番では慌ただしく仕事で流れてゆく当時の日常の描写です。
会社があった芝公園と通勤で使っていたJR浜松町駅の往復の風景や、よく仕事で行っていた渋谷スクランブル交差点が主なモチーフです。
ちなみにJR浜松町駅は、北口の竹芝通りじゃなく南口の狭い方の道路を歩くことが多かったので、外出先から会社へ戻る時に見上げた西の空を、(ビルに)“切り抜かれた空”と書きました。
そしてバタバタと曲を書き上げたら即、加藤作りたてホヤホヤのオケで「痛み」をレコーディングすることになりました。当時の私の声は若く細く、どう歌っていいかもわからないうちに、あれよあれよという間の録音でした。
そして時は流れ、6thアルバムに入れようということになりましたんで、ライブなどで歌い慣れ定着した歌い方での「痛み・2004」を録音したんです。
加藤
「痛み・2004」をミックス中に、ピカソの有名な言葉が思い浮かびました「芸術は進歩はない、変化があるだけ」…。クレヨン社の微妙な変化にご注目ください。
Q8 デビューから30年
柳沼
10年目を越えたあたりから活動年数など数えてもなかったんで、そんなに時間が経った事に気づきませんでした!
どんなに思い返してもクレヨン社はアーティストっぽく振舞えた事がないような気がするんですけど…、それなのに長い間クレヨン社を覚えていて下さる方がいらっしゃるとは!
そう言えば、よくライブアンケート等に書いていただいたのは、「胸の中でずっと大事にしまっておきたい音楽です」ってお言葉でした。
広めないでど〜すんですか?胸の中にしまっておいたらクレヨン社は売れないままでしょーがっ!とツッコミ入れましたよ!
でも、そんな奇特な方々が今もクレヨン社を聴いて下さってるんでしょう!有り難いです!
加藤
今も聞いてくれる人がいるのは、柳沼の歌詞のメッセージが普遍的だからだと思う。
Q10 今後のクレヨン社
柳沼
特に音楽活動の予定はありませんが、このコンピレーションアルバムに加えていただいた事は、クレヨン社としての思い出がまた一つ増えた事として嬉しかったです。どうもありがとうございました。