2019/10/26

『海の武士道』について  議員日記

※10月16日、ロータリークラブで卓話した内容です。ご一読ください。

「海の武士道」について  高橋宜宏


 今から9年前の平成22年10月23日のことでした。元イージス艦艦長であり、現在は吉富町で著述業をなさっている是本信義氏から「谷川清澄提督を囲む会」へのご招待があり、麻生哲氏と私が招かれました。谷川氏のことを知らない私はよく理解できないまま、会場である中津の筑紫亭へ赴きました。

 後で知ったのですが、谷川氏は大正5年に福岡県大牟田市に生まれ、昭和13年、海軍兵学校を卒業。大東亜戦争中は、「雷(いかずち)」航海長として香港攻略支援作戦、スラバヤ沖海戦、「嵐」水雷長としてミッドウェー海戦、ガダルカナルなどを転戦。終戦時には大分基地にて、最後の特攻とも言われる第五航空艦隊司令長官宇垣中将らの特攻出撃を見送ったこともある歴戦の戦士(終戦前は海軍少佐)だったということです。

 また戦後は民間企業や海上保安庁を経て海上自衛隊で勤務。1970(昭和45)年に海将へ。「海将」の位をネットで調べてみますと旧海軍では大将・中将に相当し、戦前でしたら私たち庶民はお会いできない雲の上の方だったことが分かります。1971(昭和46)年、佐世保地方総監となり、1973(昭和48)年、退職なさっています。

 谷川氏はこの日、竹田市で行われた広瀬中佐の銅像の除幕式に参列。このあと、中津市の筑紫亭で開催の「谷川提督を囲む会」へお越しいただいたということです。

 その時に谷川氏からいただいた本が『凌ぐ波濤 海上自衛隊をつくった男たち』です。この本によって、今の海上自衛隊をつくったのは谷川氏等旧海軍軍人の手によってつくられたということを初めて知りました。

 よく海外の人から海上自衛隊のシーマンシップの素晴らしさを賞賛されることがありますが、これは日本海軍のDNAを受け継いでいるからかもしれませんね。
そこで本題ですが、昨年、たまたま動画「『海の武士道』工藤俊作中佐」をネットで見て感動しました。そしてこの動画にも出てくるが、その時、駆逐艦雷の航海長をしていたのが9年前にお会いした谷川清澄氏でした。

恥ずかしい話ですが、この素晴らしい話は寡聞にして知りませんでした。改めて恵隆之介著『敵兵を救助せよ!』を購読し、この感動秘話の詳しい顛末を理解したところです。
 そこで今日は皆さんに、私が感動した動画「『海の武士道』工藤俊作中佐」を見ていただきたいと思います。

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ここで「海の武士道」の動画を会員と鑑賞。
<以下動画「海の武士道」の顛末です>
(※この部分は丹治俊樹「海の武士道!戦時中に敵兵を救った『工藤俊作』の物語! 」を引用さ せていただきました)


 「1941年12月8日に始まった大東亜戦争。1942年、インドネシアのスラバヤ沖という場所でこの事件≠ヘ起こりました。ここでは、日本軍の攻撃により、イギリスの軍艦である「エンカウンター」を撃沈しました。そして船に乗っていた船員たちは海中に放り出されたのです。イギリス兵たちはボートや木材にしがみつき海を漂流する羽目に。

 そして船から漏れた重油によって体が汚れたり、目が見えなくなる最悪の状況にありました。仲間の船が助けにくる気配もなく、疲弊し切った隊員たちの中には、自殺を図る人も現れたといいます。

 漂流すること21時間が経ったとき、彼らの視線の先に巨大な軍艦が見えたのです。彼らは、オランダの救助船が来たと思ったといいます。

 ところが、その船は敵国である日本の駆逐艦「雷」だったのです。

 その雷の船長は「工藤俊作」という男。身長185cm、体重90kg、堂々たる体格ですが、非常に温厚な性格の持ち主でもありました。あだ名は「大仏」。

 海軍時代、江田島の海軍学校で鉄拳制裁を禁じた「鈴木貫太郎」元首相のように、艦長であった時に、船員に対して、鉄拳制裁は禁止した経歴の持ち主で、部下からの評判も良く、工藤が艦長だった戦艦はいつもアットホームな雰囲気だったといいます。

 イギリス兵たちは、日本船だと思った時は、機銃掃射で撃ち殺されるだろうと思ったそうです。

 駆逐艦「雷」では、漂流者のイギリス兵と距離四千まで近づいたところで、二番見張りと四番見張りから連絡が入る。「浮遊物は漂流中の敵らしき」「漂流者四百以上」。

 実際に漂流していたのは422名のイギリス兵でした。彼らの生殺与奪は、工藤の判断次第。が、工藤は迷ったと思います。なぜならこのスラバヤ沖は、開戦の最中でもあるため、救助をしている最中に連合国に攻撃される可能性が十分にある危険な場所でしたから。

 そのとき工藤艦長は叫びました。「救助!」「取り舵いっぱい」。そして雷は救難信号の旗を上げました。

 ここから、世界の海軍史上でも極めて異例となる救助劇が始まったのです。
イギリス海軍達は、ボートや木材などにしがみついているものの、船の重油などで衣服が汚れてもいました。

 雷の乗組員たちは、先に自力で上がれるものを上げ、重傷者は後で救助しようと考えていました。

 ところが、イギリス兵たちは、先に負傷者を救助するようにと要求してきました。重傷者を引き上げつつ、ロープを海中に投げてイギリス兵たちに握ってもらう。しかし、彼らは、相当疲弊しており、ロープを握れないほどでした。

 そのため、乗組員が竹竿を下ろし、それに抱きつかせておこうとしたが、竹竿に触れると、イギリス兵は安堵したのか力尽きて海の中に沈んでいったのです。

 すると、この光景を見かねた船員達は独断で海中へ飛び込み、立ち泳ぎをしながらイギリス兵たちを救ったのです。

 ここまでくると、もう敵も味方もありませんでした。とにかく、雷の船員たちはあらゆるものを駆使してイギリス兵の救助を行ないました。この救助劇は、イギリス兵の日本人に対する印象を変えました。

 ただ引き上げられたものの、まだ警戒心が完全にとけたわけではありませんでした。「もしかしたら、この後何かひどい目にあわされるのではないか」と。

 しかし、工藤は彼らにこう言ったのです。

「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」。

 その後も終日、雷は海上に浮遊し続ける生存者を捜し続け、たとえ遠方に1人でも人がいたら艦を近づけて停止させ救助をしました。のちに、イギリス兵たちはオランダ病院船である「オプテンノート号」に引き渡されました。

 これにより、世紀の救助劇は幕を閉じたのです。

 その後、工藤は「雷」を降りて、最終的には埼玉県の川口市にて余生を過ごしました。戦争で多くの仲間を失った工藤ですが、自身は生き延びたのです。また、 駆逐艦「雷」は、その後連合国軍に攻撃され沈没をしてしまいました。

 余生は、海上自衛隊や江田島海軍学校時代のクラスが在籍する大企業からの招きなどすべて断っていたといいます。工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや部下の冥福を祈って仏前で合掌していたそうです。

 一方、その後、工藤の消息をずっと探し続けた一人の老人がいました。

 彼の名は「サムエル・フォール」。

 彼は、雷によって救助されたうちの一人でした。

 何としても、死ぬまでに命の恩人である工藤に一度でいいからお礼を言いたかったのだそうです。あの救助された日以来、フォール氏は1日として工藤を忘れた日はなかったといいます。

 そのため、海上自衛隊や英国海軍に正式に調査を依頼したのですが、なかなか工藤の消息を掴むことはできなかったそうです。ところが、その消息をつかんでくれた方がいました。その方は、元自衛艦の恵隆之介氏。彼のおかげで、フォール氏は工藤のお墓の場所を知ることができたのです。

 ちなみに、この救助劇の話は、実はフォール氏がいなければ誰もが知らずに封印されてしまっていた可能性があるのです。

 実は工藤は、敗戦や仲間を失ったショックからか、自身の海軍に関することやこの救助劇に関しては身内にさえ話さなかったそうです。工藤は、1979年1月12日、78歳で生涯の幕を静かに閉じています。

 2007年12月、ついにフォール氏は念願の工藤の墓にたどり着いたのです。

 フォール氏は足が不自由なため、車椅子で墓前に達したが、献花の時には満身の力を振り絞って立ち上がり、工藤艦長に語りかけたという。

 66年ぶりに命の恩人に対面した彼は、いったい何を思ったのでしょうか。
 その後、フォール氏は2013年2月、95歳の年齢でこの世を去りました。」

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 どうでしたか、皆さん。感動的な話だったでしょう。この動画「海の武士道」にも出演されていた谷川清澄氏は別のネット動画でこの「救助劇」について次のように語っていました。

「はっきりしておきたいのはあの時、敵兵を救助したのは『雷(いかずち)』だけではなかったんです。「電(いなづま)」「山嵐(やまかぜ)」「江風(かわかぜ)」、皆同じように敵兵を救助しているんです」。「向こうも一生懸命戦ったのですから、たとえ敵兵でもまだ浮いている生存者を救助するのは当たり前のことであって、特別なことをしたわけではないのです」。「すっかり美談のようになってしまっていますが、当時の日本海軍では普通の行為だったと思います」。

 ということは、江戸時代に爛熟期を迎えた「武士道精神」がこの時代の武人にもまだ残っていたということですね。

 なお、この「武士道」という言葉は、新渡戸稲造の著書『武士道』で広まったものであり、「武士道」という言葉は明治33年(1900年)以前のいかなる辞書にも載っておらず、実際には江戸時代には一般的な言葉ではなかったとの指摘もあります。

 この『武士道』はセオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディ大統領など政治家のほか、ボーイスカウト創立者のロバート・ベーデン=パウエルなど、多くの海外の読者を得ています。
 この卓話を機会に新渡戸稲造の『武士道』を再読いたしました。この本の中にこんなことが書かれていました。「『ブシドウ』は字義的には『武士道』、すなわち武士階級がその職業、および日常生活において守るべき道を意味する。 一言にすれば『武士の掟』、すなわち武人階級の『身分に伴う義務 ノーブレス・オブリージュ 』である」。

 ロータリー精神はまさにこのノーブレス・オブリージュと言われています。

  そういう意味で私たち日本人、特にロータリアンはもう一度「武士道」を見直すべきだと思います。

 最後に。昨年の10月13日103歳で谷川さんは永眠されました、ご冥福をお祈り申し上げます。


参考文献
恵隆之介著『敵兵を救助せよ』、丹治俊樹「海の武士道!戦時中に敵兵を救った『工藤俊作』の物語! 」


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後列左より小生、是本信義氏、麻生哲氏。前列左が谷川清澄氏、その隣が是本氏の令夫人

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          小生と谷川清澄氏

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谷川氏からいただいた手島正己著『凌ぐ波濤 〜海上自衛隊をつくった男たち』

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     『凌ぐ波濤』には谷川氏のサインと日付が入っている


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              恵龍之介著『敵兵を救助せよ』

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              スラバヤ沖海戦のあった場所

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              若いころの谷川清澄氏

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              工藤俊作氏の墓
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