■医師も薦める、武道家日野晃が教える医療従事者の為の「明鏡塾」です。
患者さん利用者さんとの「関係」に特化したセミナーです。
「東京・明鏡塾」次回は12期、「大阪・明鏡塾」次回は7期です。
●「明鏡塾体験会」のお知らせ
東京 4月17日・5月15日
大阪 5月22日
詳しくはhttps://www.meikyojuku.com/
※伝説の「武禅一の行」次回は5月1.2.3日です。
キャンセル待ちです。
東京ワークショップのお知らせ
6月4.5.6日受付開始!
◆日野晃・東京ドラムソロコンサートDVD販売中‼
100枚限定 「お申し込み」
昨日の「明鏡塾」で、足元をすくわれた。
といっても失敗の話ではない。
「既に分かっている事」とこちらが勝手に思い込んでいた、という事に改めて気付いたということだ。
「明鏡塾」のカリキュラムで「筋肉に触れる」がある。
誰でもそんな事は日常的にも体感している事だと思い込んでいた。
しかし、看護師から「初めて筋肉とはこれかと知った」とコメントされたので、「既に分かっていると思い込んでいた」と気付いたのだ。
これは、私の完全な誤解だ。
無意識的な日常行為と、認識されまた意識的な行為は、誰でも自動的に変換されるものだと思い込んでいたのだ。
それは、私がそうしているからだ。
これは、先日のzoomでの会議でも気付いていた事だ。
そう、当たり前の事だが人は違うのだ。
専門的な事と言っても、全ての専門家が専門家ではない。
「専門に」という自覚や、そこから発生するであろう心構えが無い人も沢山いる。
単に専門にやっているだけだ。
だから、言葉を変えれば「それだけをやっているだけの人」なのだ。
こういう人が、きっと大半なのだろうと思う。
それは、専門学校という名の学校を卒業し、その道にはいったとしても、決して本当の意味での専門家にはなれないからだ。
大方が「それだけをやっているだけ」だ。
もちろん、例えば棟梁がいて2番手3番手とあり、下仕事迄序列があるし、質的レベルも仕事によって区分けされている事で分かる。
「それだけをやっているだけ」のそこだけを見ると、いかに人生を貧しく過ごしている、あるいは、自分を貧しく育てているのかと可哀そうに見える。
もちろん、当人達はそうではないのだから大きなお世話だろうが。
昨日はzoomで、大阪と東京の一部生徒達と会議を開いた。
やっぱり、話は途切れる。
それは機械的な問題と、それぞれの「言葉にする」という作業が練れていないという問題があったからだ。
仕事ではない会議というのは難しい。
それは共通言語を持っているようで持っていないから、有るようで無いからだ。
日野武道研究所という枠があっても、共通言語が無い。
つまり、それぞれの会話の量が足らないのと、日野武道研究所と自分との関係が明確ではないからだ。
さらに、武道での問題は、必ず「感覚」が上がってくるし、レベルの問題も上がってくる。
それらを、とにかく「言語化する」という作業が「日常的」で、「一般的な」というレベルにはなっていないからだ。
当然、それは道場での「指導」という事とも関わってくる。
「日常的」というローカルな範囲での話は、知らない人には分からないという事を、骨身に染みて認識していなければならない。
「自分のペースでやるな」の典型的なエピソードがある。
私の弟子の一人が牧場で働いている。
そこに毎年高卒の子供達が、新入社員で入ってくる。
どの子も体力がなく、もちろん、機転も効かない。
しかし、半年もすると体力も付き機転も効くようになる。
それは、ペースの主導権を「牛」にしているからだという。
牛のペースに合わせ作業が出来るようになる。
つまり、観察力が身に付いてくるから、何時、何をすればよいのかが分かってくるからだ。
これを逆に、こちらの作業ペースでやると、牛は人の都合で生活ペースがあるのではないから、人はイライラするしその分体力も消耗する。
同じ仕事でも、そこに目に見えないストレスを抱えたり、逆に楽に時間を過ごせたりと分かれるのだ。
武道には「後の先(ごのせん)」という言葉がある。
解釈は色々だ。
例えば、「相手のやりたいようにやらせた後に攻める」という解釈、「相手が攻めるという意志が発動した直後に攻める」等々、様々だ。
何れにしても、相手をねじ伏せるのではない。
相手をねじ伏せない、という行為は相当難しいが、それが「自分のペースでやるな」だ。
相手のペースに連れるから、相手はこちらのペースに連られるのだ。
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こんな高級な「関係」をワークショップで体感し、難しさ、あるいは、日常とは違った体感を味わって欲しい‼
東京ワークショップ6月4.5.6日
申し込み開始しました。
「流れに乗る」を極端に表現すると、「自分のペースでやるな」となり、逆に言うと「相手のペースに巻き込まれろ」だ。
現代の風潮とは真逆のようだが、これが出来ない限り、他人と様々な面で衝突するしかないのだ。
それは、人はそれぞれに違う、という、人というもの、それが複雑に組み合わさった世間を構成する人間模様には、当たり前の前提条件なのだ。
衝突しか選択肢がないとしたら、相手の力よりも、あるいは、相手の方が知力が勝れば、従うしかない。
もしくは、壊されるしかないのは、火を見るよりも明らかだ。
「流れに乗る」は、相手を理解するということでもあるのだ。
有名な孫氏の兵法に「彼を知りて、己を知れば、百戦して危うからず」がある。
この「彼を知りて」の高級版が「流れに乗る」だ。
孫氏の「彼を知り」というのは理解の事だ。
これは、こちらの理解力や判断力が問題になるし、必ず自分にとって都合の良いようにしか解釈しないのが常だ。
という中でも、客観性を持ち合わせている人だけが、この孫氏の兵法を実際として使えたのだ。
「己を知れば」は、文字通りの事なのだが、一人で日常を過ごす自分の事ではない。
社会で世間での状況の中で、という話だ。
そして平時ではなく、突発的な事が起こった時の自分自身の本性をという話だ。
これらは全て人生を歩く事とリンクする。
それが武道の稽古の根幹なのだ。
武道という一つの形式だからこそ、これらを身体として、行動の実際として錬磨出来るのだ。
というような内容を、ワークショップで行っている。
だから「関係がテーマ」なのだ。
東京ワークショップ6月4.5.6日
申し込み開始しました。
先輩が後輩を指導する。
当たり前の事だと思っていたが、実は当たり前ではない事を知った。
むろん、今の話ではない。
何十年も前の事だ。
道場には、先輩と後輩がいる。
1日先に入っても先輩、1日遅れて入ったも後輩だ。
あるいは、年長者がそれよりも若い人を指導する場合もある。
これは、道場では通らない事が多い。
若くても古い人がいるからだ。
こういった序列は、社会では絶対に必要だ。
責任を学ぶ事に繋がるからだ。
もっと言えば、兄弟なら兄が弟の面倒を見る。
これも責任だ。
弟や妹が悪さをして親に叱れる。
その叱られるは、兄や姉の役目だ。
物事をフラットにしか見えない人には、理不尽だという事になる。
しかし、きっと動物は自然とそうしているのではないかと思う。
もちろん、それは種を絶やさない為の遺伝子の策略だ。
当たり前ではない、というのは、人の関係をフラットにしか見えない人の絶対量が増えて来ていることだ。
「どうして?」はどうでも良い。
間違いなく教育とメディアの垂れ流す、最もな情報の影響だ。
それが時代の移り変わりというものだろう。
でも、私が若い頃、ジーパンに長髪が世間を席巻した。
当時の大人達は一斉に眉をひそめた。
そんな事を思い出せば、別段時代は移り変わっていないとも思う。
しかし、確実に移り変わっている。
社会を構成する人と人の関係が、薄くなっている。
それこそビールが、ノンアルコールビールで満足、という様な薄さだ。
これでは、生物である必要はない。
武禅一の行 5月1.2.3日キャンセル待ちです!
武禅一の行・受講者の感想
先日ツイッターで、ふと目に付いたのが、拙著「考えるな体に聞け」が紀伊国屋のスポーツ関連の書籍で売り上げ1位らしい。
思わず「え〜〜」だ。
https://amasale.newif.net/ranking/kdetail/1384430
もちろん嬉しいのだが複雑だ。
私にとっては、この本の内容は殆ど20年前のものだからだ。
本が売れているのは、時代が20年前の私に追いついたということだろう。
もちろん、私は当時から言えば20年後を歩いている。
それこそ「そこにはいない」だ。
こればかりは仕方がない。
基本的に私は世間と一緒は嫌いだからだ。
気分も悪い。
だから、違う事、違う道ばかり探すということを、人生通してやっている。
時々、世間がリンクして来る時があるだけだ。
もちろん、違う道は手間がかかるし疲れる。
その分、私自身が鍛えられて来た。
だから、ちょっとやそっとではめげないし、文句も言わない。
それだけでも、愚痴を垂れながら会社にいったり、人付き合いをしているよりは楽しい人生を送っていると言える。
武禅一の行 5月1.2.3日キャンセル待ちです!
武禅一の行・受講者の感想
おっと、もう4月10日だ。
5月には「武禅」、6.7.8月はと各地でのワークショップが続く。
今回のお知らせを作るのに、以前のワークショップの写真を探した。
「そういえば、この人はどうしているのだろう」「こんな人も来ていたなぁ」と、時間が過ぎて行っているのを実感する。
同時に、私が伝えたい事も時間と共に、また、受講者と共に変化している。
根本的には、深くなっているので、数年前とは全く違う事もある。
そういった事を振り返る、つまり、自分自身で自分の経緯を客観的に見えるので、たまに以前の写真を見るのは役に立つ。
よく言う言葉なのだが「もう、そこには居ないで」と「ええ、まだそこに居るのか」がある。
それは、日々感じていることだが、自分の以前の写真からもそれが見える事がある。
その場合は、自分が何かに固執している時、または、ひっつかまっている時だ。
でも、その足踏み状態が、次へのステップの地盤固めでもあるのだ。
その言葉は、もちろん後付けだが。
つまり、地盤固めの為に足踏み状態を作っているのではなく、結果地盤固めだったということだ。
行動している時は、後先考えずに「その事に集中している」ので、どうなる為に、または、どうなるのか?は考えていないのだ。
武禅一の行 5月1.2.3日残り1席です!
武禅一の行・受講者の感想
東京も大阪も「まん延防止」が発令される?
全く持って能天気な顔で、能天気な声で知事が話す。
部会のおっさんもどれだけ能天気か。
よく、その顔を公衆の面前に晒すことが出来るな。
大阪では「どんな顔晒して生きてんねん」という。
それこそ、どんな世界を生きて来たのか不思議でならない。
「その顔」というのは、無機質で何の表情も無い、という意味だ。
顔は嘘をつけない。
つまり、顔は自分の人生を生きる中での喜怒哀楽他の葛藤の証だということだ。
それは、いみじくも「他人を理解する・他人と共感しあえる」ということの証明だ。
つまり、能天気な顔というのは、そういった人と人、あるいは自分自身の目に見えない部分の「気持ち」の蓄積が無いから、ということだ。
発令する前にする事があるだろう。
医師会の会長と呼ばれるおっさんも同じだ。
やる事があるだろう。
やれる事があるだろう。
その事が、私達には全く見えないから、能無しか?と思われるし、国民の事を何も考えていない、考えられないのだろうと見えてしまうのだ。
病床を増やせよ。
どこかのコロナ患者を受け入れている病院の院長が、「対策さえ取れば決して危険ではない。その対策を指導するから、病院の方、医師の方、相談してください」と発信しているそうだ。
ところが、それに反応した病院は一件しかないと嘆いていた。
それが医師会であり、公が積極的に介入しないところだ。
もちろん、ここには介入しない理由、出来ない理由があるだろう。
しかし、平時ではなく緊急事態なのだ。
笑い話ではないが、もしどこかの国が日本に攻撃をしかけたとすると、戦車を動かさなければいけない。
しかし、道路交通法で戦車は公道を走れないから、動かせないというのと同じだ。
緊急事態だというのなら、緊急発動すれば良いのに、それをしない。
それこそ、能天気な頭で指令をすれば良いのだ。
緊急なのだから。
「武禅」に申し込んでくれる人は色々だ。
そんな中で、思いもかけない人が来る場合もある。
それは、10年前、20年前の人だ。
今回も20年ほど前に2回ほど受講してくれた人から申し込みがあった。
私が指摘した言葉が、20年間頭に残っており、その結果どうなったかの見極めたいとの事だ。
これは嬉しい!
「武禅」は、他人を通して自分を知ることが目的であり行だ。
自分自身を判断している自己判断が正しく他人に表現されている、あるいは、他人には見えているのかどうか。
自分が他人を見る目は、先入観や固定観念だらけで、実際自分に対してくれているのかどうか、「関係」そのものを赤裸々にあぶり出し、反応できる感性や気持ちを感じ取れたり、伝えたりを鍛え磨く行だ。
人は、先入観や固定観念の殻を破っていくと、生身がそこに現れてくる。
その生身としての「わたし」は誰一人の例外なく、他人と関われ良い関係を築けるようになっているのだ。
もちろん、それは「人は動物であり、生物だから」だ。
「20年間、言葉が頭に残っていた」のは、私がその人に真摯に向き合っていたからだし、その人も私に向き合っていたからだ。
つまり、そこには「関係」があった、ということだ。
今回は、その人に会うのも楽しみなのだ。
「武禅」5月1.2.3日残り1席です!
武禅一の行・受講者の感想