■医師も薦める、武道家日野晃が教える医療従事者の為の「明鏡塾」です。
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もうすぐNHKプレミアムで岡田准一さんとケンドーコバヤシさんがMCをするTV番組。
いよいよ今日15日午後11時15分放映、レギュラー番組への道「明鏡止水〜武のKAMIWAZA〜」です。
TV映りはどんなやろ?メイクさんが、イチビッテメイクをしてくれたのはどうやろ?
ま、それらは中身と関係が無いからどうでも良い。
中身の見えない武道の技は、どんな見え方に、あるいは、どんな撮り方をしたのか?そんな事に興味が湧く。
方言には愛情が下地にある。
言葉は当たり前だが、気持ちの現れでもあるし、何かしらの伝達道具でもある。
ただ、標準語になった時、前者の気持ちの現れは、極端に希薄になる。
それは、私自身が大阪弁、さらに、下町の汚い大阪弁だからこそ考えるようになったのだ。
「お前は、アホか」は、日常いたるところで使う。
もちろん、現在の事は知らないが、私が子供の頃の65.6年前からの話だ。
それを標準語に置き換えると、意味としては否定している言葉になる。
しかし、大阪での実際を分析すると、からかっている程度であり、言われている人の人柄が良いと見極めた上での、アンバランスな行為や行動に対する言葉だ。
だから、人柄の悪い人には用いないのだ。
人柄の悪い人に用いる時は、既に喧嘩状態で、言い合いから殴り合いに発展する。
だから、単純に相手を否定する為に用いる言葉ではないということだ。
日常的に使われるから、当然、その言葉に免疫を持つし、別段言われて落ち込む事もない。
もう少し突っ込むと、「お前はアホか」という言葉が出るようになると、その関係は密になっているとも言えるのだ。
以前も書いたが、私がドラマー現役時代に、観客からの「早よ、止め、ボケ、おっさん引っ込め」くらいの野次はいくらでもあった。
そんな時「やかましいわ!黙って聞けアホンダラ!」とドラムを叩きながら言い返す。
大きな会場になればなるほど、そういう事態になっていた。
そういうコミュニケーションであると同時に、面白くも無い舞台は壊してしまえ、という熱も入り混じってのものなのだ。
その意味では、当時の客は正直でもあったのだ。
ドラムを止めようと思っていた時期に、面白い企画が私のところに持ち込まれた。
何の事はない、商店街の客集めだ。
大阪に京橋という場所がある。
旧砲兵工場跡のすぐ近くで、やはりガラの悪い地区だ。
そこにあるグランシャトーという飲食店が集まるテナントビル、その屋上でのイベントだった。
私は出演者のメンツを見て快諾した。
ロック、ブルース、それに私達のフリージャズ、メインは今や俳優で大活躍の麿赤児さん、アルトの坂田明さんのデュオだった。
バンドの大方が関西で活躍する実力者達だ。
この時、私は武道を教えておりドラムから遠ざかっていたので、スティックを飛ばさないように、ガムテープを指に巻き叩いた。
「アキラ!死ぬまで叩け!」の声援に、ガムテープを剥がして叩きまくったのを思い出す。
イベントは順調に進み、トリになった。
坂田さんが出て来てソロで吹き出す。
場内は動かない。
麿さんが登場、ゆっくりと動きながら舞台の鼻まで来る。
「同じことするな!」「またそれか!」「ひっこめカス!」
阪神タイガースの応援を想像してくれたらよい。
観客は大いに盛り上がっていた。
もちろん、この場合は麿さんも坂田さんも動じないから、このやり取りが成立するのだ。
当然、やり返したら又別の展開になり、違った面白さになったろうと思う。
私は客席の後ろにいた。
「ほんまに壊してまえ!」と、当時劇団日本維新派の白藤茜やスタッフ達に声をかけた。
「どうしたらええかな」「舞台の後ろにある梁にロープをかけて、そこを渡ったらどうやろ」それで決定した。
舞台ではデュオが続く。
舞台後方では、ロープを張る作業が入る。
観客がざわめく。
ロープが張られた。
「誰が渡る?」「そら白藤しかいないやろ」「よっしゃ!」
白藤がロープのところに行く。それを見た観客がヤジる。白藤茜は、ある意味スターでもあった。
小児麻痺の片足を引きずりながら、何と鳶職をやっているのだ。
特異な風貌で維新派の舞台を、所狭しと暴れていたからだ。
そのやせ細った片足を引きずりながら、ロープにぶら下がった。
観客は大興奮だ。
「アホ!落ちてまえ!死ね!」ありとあらゆる言葉を、白藤に浴びせる。
当の白藤はぶら下がりながらも、「お前がやってみろ」と返す。
麿さんも坂田さんも完全に飛んでしまったが、黙々と時間を消化していた。
白藤が無事ロープを渡り切ると大拍手だった。
「白藤エライ!」
この時の言葉だけを取り出して、否定しているとか、何と品の無い、というのは通用しない。
生身の人間の気持ちが、竜巻のように席巻した会場だったのだ。
それを標準語では理解出来ないだろう?
言葉は気持ちの現れであり、その気持ちも薄っぺらなものではなく、人間の奥底にある生命の鼓動のようなものなのだ。
だからこそ、人同士が響き合えるのである。
今日は、縁があって地歌舞の家元と食事をした。
地歌と言う言葉は、母の口から良くきいていた。
「地歌舞は難しいで」というような話だった。
地歌舞というのは、地元の舞という意味だそうだ。
関西が発祥で、お弟子さんが関東に持ち込み、関西と関東を区別する為に、地歌舞の「歌」を関西「唄」を関東にしたそうだ。
京舞の吉村流の話も興味深かった。
伝統芸能の本筋の方の話は、まず巷の情報には出て無い事ばかりなので、唸ってしまった。
会話の中で、一寸した所作が当たり前の事だが美しく力強いかった。
当然、意志も私に向かって来る。
舞の話の中での所作は、まるで武道家の視線だった事に驚いた。
関西の方なので、大阪弁のニュアンスが出るので、お話がどんどん進んだ。
気付いたら3時間。
神田道場に見学に来られるとのこと。
どんな反応をしてくれるか楽しみである。
ピアノを弾きたい、とした時、ピアノを弾く技術が先か、音楽的感性が先かを考える。
もちろん、どちらでも良い。
但し、技術は魔物だ。
つまり、技術にとり憑かれると、肝心の音楽的感性が忘れ去られてしまう危険性があるということだ。
以前、世界的指揮者の小澤征爾さんが、「技術優先の風潮を、よい加減止めなければいけない。確かに技術は必要だが技術だけでは音楽にならない。鼻歌に戻れ」という様な事をおっしゃっていた。
クラシックバレエのワークショップをオランダで開いた時、バレエの先生方が同じように「技術が先行してバレエのこころが失われている」とおっしゃっていた。
そのワークショップを受講している学生達を見ていると、明らかにその違いがあった。
同じ姿勢をとっても感性がその姿勢を要求したのか、その人が姿勢として完璧な姿勢を作り出そうとしているのか、違いは歴然としていた。
当然、感性優先の人は「美しい」が、姿勢を作っているだけの人は「それで何をしたいの?」と質問が湧く。
そこから考えると、やはり感性からの入り口しか無い。
しかし、よくよく考えると、そういった内的発動があり、「これをしたい」「これを弾きたい」となるからだ。
その内的な感性を深めていくことが、結果としてどんな技術が必要なのかに現れてくる、それが必然だし、この図式は人生全てに当てはまる。
先日、フジコ・ヘミングさんのソロピアノを聴いた。
TVにも関わらず、ピアニシモの鍵盤から音が沸き上がって来ていた。
それこそ鳥肌ものだった。
段階的に稽古をするが、しかし、一体段階的って何だ?
段階的に成長することなど有るのか?
子供の頃、「ジャングルの奥深く入っていくと」という何かナレーターの言葉があった。
ジャングルの奥深く?という意味が分からなかったのだ。
そこから行くと奥かもしれないが、反対から行けば「そこ」なのではないか?と思ったからだ。
地球は丸いと聞いた。
日本は島国だと聞いた。
そこから考えれば、「奥深く」は、そこから行くからであって、反対側に回れるのならそちらから行くのが早いのでは?という理屈だ。
そんな疑問を、子供の頃から持つ天邪鬼だ。
だから、常に疑問を持つ。
段階的?初めての人にとっては、簡単も難しいもなく、どれも「難しい」のだ。
だから、「技」の稽古をする時、単純な動きを最初に、ということにしている。
もちろん、単純であろうが難しいのだが。
昨年暮れから紹介している岡田准一さんとケンドーコバヤシさんがMCをするTV番組。
いよいよ8日放映です。
私は1月15日に放映されるNHKプレミアム「BSプレミアム」レギュラー番組への道「明鏡止水〜武のKAMIWAZA〜」です。
@(2021年1月8日金曜23時15分から23時44分)
A(2021年1月15日金曜23時15分から23時44分)
私は2で技の解説をしている。