2019/7/24
「ふりだしにもどる」小学生の頃、すごろく遊びをよくやった。
というよりも、室内でのあそびが殆どない時代だったからだ。
折角ゴール近くまでいっても、この「ふりだしにもどる」のところに、サイコロの目が来たら最悪だ。
先日の稽古は木刀を集中的にやった。
重力に逆らわず、というのは、武道の稽古の時、2.30年前に気付いたことだ。
そのことは頭にあったが、あくまでも頭の中にあった、というだけのものだった。
木刀を持ち手を離すと、当然木刀は落下する。
重力に逆らわないということの、一番分かり易い形態だ。
もちろん、無意識的には木刀をそう扱っていた。
しかし、純粋に木刀を手から離すと、人為的なスピードではない落ち方になる。
それに身体を合わせるのだ。
もちろん、木刀を持つ手も合わせる。
というよりもついていく。
そして打突の瞬間に木刀を握り、その落下スピードに合わせ膝を使う。
そうすると、たった30cmの落差でも、人が尻もちを付くぐらいの力は出る。
「ふりだしにもどる」重力の扱いを身体で分かった瞬間だ。
思うに、身体を自由に使えるようにならなければ、重力に付いていけなかったのだろうと。
だから、これだけの歳月がかかったのだろう。
次は夏ギラギラの沖縄ワークショップ
沖縄ワークショップ8月10.11.12日

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投稿者:Yai
「そのことは頭にあったが、あくまでも頭の中にあった、というだけのものだった。」
なるぅ〜…っと、ふかぁ〜く、一人頷いてしまった。。
「それそのもの」を感じるということは
もしかしたら、自分の観念とさえも氣づけていないような事からのとらわれ?!からの自由自在な状態のときなのだろうか!!
知識はためになっているようで、一体、なんのためになってるんだろうか??
知識もまだまだない時、例えば、子供のときのほうが、もっともっと、やること、味わうこと、感じることに心がわきたつ実感が、たしかにあったのかも!
「まだまだ、まだまだ、自分は、知らないことだらけ、わかったような氣になっているだけなんだ!」
と思うと、「思い込みゾーン」も、どんどん白紙になるようで、心しずかにワクワクした!