子供の頃から海が好きだった私は、成人すると同時に海技免許を取得し、小さな船外機付きのボートを買い、魚釣りに行ったものです。
その内に、雨が降っても寒い日でも平気で乗れるボートが欲しくなり、トイレもシャワーも台所も寝室も付いた、もちろんキャビン付きのボートに乗り換えたのであった。
沖を31ノットで滑走するクルーザーを操船するのはとても気持ちが良い物である。
ある時は大物釣りでトローリングをし、ある時は小さな入江で停泊をし、夜を明かすこともあった。
そんな瀬戸内海を中心に走り回っている内に、よく目にしていたのがヨットである。
「ゆっくりゆっくりしか進めないヨットの何処が面白くてやっているのかねえ〜?相当な暇人でなければ出来ない遊びだな」などと思っていたものである。
やはりまだまだ若かった頃の私は、事業も人生も駆け抜けていた最中であったゆえに、動いているのか止まっているのか分からない乗り物はどうも理解できない物体でもあったのである。
人と言うものはおもしろい物で、常になぜか目障りなくらい目の端に存在している異性に対し、何の感情も持たなかったはずなのに何時の間にか気になる存在になっていたりする。
何かの弾みで何時も目障りになっていた存在がその時に何かの都合でいなかったりすると無性に落ち着きを無くしたり、平常心でいられなくなってしまったりする。
そして気が付いたらあれほど馬鹿にしていたヨットを買って乗っていた。
それも多くのヨットを乗り継いできた世界のベテランセーラーが垂涎して欲していると言うマニアックなクラッシック艇である。
昔からヨットビルダー国として名艇を数多く世に送り出してきたイギリスの名艇を手に入れたのである。
それもそんな価値のあるヨットであることなど全く知らずにである。
既に10数年前から生産をやめてしまったこのヨットは日本国内には10隻も無く、余程の事態が起こらない限り手放すことは有りえないと言われている代物だと言う。
人生には、いやが上にも経験しなければならない出来事も経験し、血の涙を流した日々も幾度もあった。
これがこの世の幸せかと感無量に感じ行った事も幾度も経験した。
いろいろ様々な他人の生き様もそんな諸々の人々の阿鼻叫喚の渦の中も泳ぎ切って今に辿り着いた。
子供の頃、人間っていつま生きるんだろうと思っていた。
青春期、生きる当ても見つからない人生なんて早く終わればいいのにと思っていた。
今、ヨットのデッキでマストに張られたセールに風を受け、シューと海面を切り裂く弱弱しい音に心和ませ、水面に風の甍も無い海原でピクリともしないセールと無音の中に人生の短さと人の世の儚さを噛みしめる。
ジッとその場に佇み、自分の心の奥底の深淵を静かに掘り起こしてみる時間も必要なのでしょう。
新西宮ヨットハーバーのバースにはヨットを始めたばかりですと言う高齢者が数千万、数億もする新艇を係留し、ただ闇雲に駆け抜けて来た自分の人生の時間を取り返すように「ヨットをやる様になって人生の醍醐味を初めて知りました。こんな事ならもっと早くヨットを始めておくべきでした。私は永年医者をしてきて多くの患者さんに接してきました。多くの患者さんも助けてきたつもりですが胃がんを患い、胃を全摘しました。それでうつ病を患って籠りがちな生活をしていたところに知人からヨットに誘われて今に至っています」と言った、高齢者が実に多いのにも驚かされます。
働ける限りは死ぬまで働きたいと言う世の中に貢献する事こそが自分がこの世に生を受けた意味だと言う人もいていいと思う。
人生の半分の時間の内の三分の一は自分の幸せのために、三分の二は他人の幸せのために。
そして人生のもう半分はすべて自分の幸せのためにと思う人もいていいと思う。
人生の折り返し地点をとうに過ぎてしまった私は平均寿命まではヨットの上でセールがなびくのと風見鶏を見上げて生きられたらと思う。
人生とは実に奥深く、実に愉快な物だと思う。
私は日頃から家内に「もし何かの不都合で僕が亡くなったとしても、楽しく悔いのない人生を送って大満足で逝けるのだから、可哀想だとか気の毒になんか決して思はないでくれよ」と言っている。
さらに「間違っても僕より早く逝くんじゃないぞ」と頑なに言い聞かせてある。
戒名も貰った。正式な遺言も書いて弁護士に渡した。
両親も無事に見送った。
後は・・・・・。


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