2021/5/16
「大波の表層を ゆっくりと剝いでゆく [4]」
小柳剛
「『ダイヤモンド・プリンセス号』からの生還」その後
「隔離終了直後 大黒埠頭にて」
(A)大波を泳ぎながら周囲を見渡せば
(4)
私はふたたび振り出しに連れもどされてしまう。振り出しとは、あの夫を失ったご婦人についてである。
前にほんのわずかにふれた2020年8月5日の朝日新聞の記事では、このご夫妻についてが紹介されている。しかしこの記事には不思議なことが書かれていたのだった。記事のその部分を紹介しよう。
「政府の専門家会議は、欧米と比較して感染者や死亡者が少ない要因と
して『ダイヤモンド・プリンセス号への対応の経験がいかされたこと 』を
挙げた。女性は声を詰まらせる。『私たちは実験台にされたんだと思う。
どうして感染が拡大する船内にとめおかれたのか』
クルーズ船運航会社の日本支社であるカーニバル・ジャパンの対応にも
不信を募らせる。7月中旬に社員が自宅を訪れたが、慰謝料や対応につい
て尋ねても、『すみません、不測のことで免責になります』と答えるば
かりだったという。」
私が不思議なことというのは、カーニバル・ジャパン社員の応え「不測のことで免責になる」という言葉だった。推測するに、船主プリンセス・クルーズ(社)にとって「不測のこと(感染症爆発)」には責任がとれない、という意味なのだろうか?では「不測のこと」とは船主にとって厳密に、どこから、どこまでを言うのだろう?感染それ自体のことか?では感染にたいする対応はどうなのか?何かの法として定められていることなのか。
私は、とりあえずダイヤモンド・プリンセス号の「旅客運送約款」(注12)から調べ始めてみた。すると意外にもすぐさま、社員の言う意味と思われる文言は発見できたのだった。
約款の第15条「運送人の責任制限、補償」の(B)がこの件に該当すると思われた。長くなるが全文記してみよう。
「運送人の支配を超える事由、不可抗力 運送人は、天災、伝染病、パ
ンデミック、感染症の集団発生、公衆衛生の危機、自然災害、燃料及び/
又は食糧の調達不能、港湾及び/又は空港の閉鎖、民政又は軍事当局の行
為、政府の行為、規制又は法律、政府の命令又は規則、戦争、騒乱、労働
紛争、テロ、犯罪、その他潜在的な害悪の原因、政府干渉、海難、火災、
船舶の拿捕又は差押え、医療救助その他の援助の必要、その他の運送人の
排他的支配を超える事由、又はその他の運送人の過失によって引き起こさ
れたとは判断されない作為又は不作為によって引き起こされた一切の死亡
、傷害、病気、又は損失、遅延、その他の人身又は損害の賠償する責任を
負いません。」
考えられ得るかぎりの、自分の意思の及ばない範囲のものを、天から降ってきた災厄としてこれでもかと挙げている。100歩ゆずって、「運送人(プリンセス・クルーズ⦅社⦆)」の言うことはもっともだとしよう。しかし、それでもまだ問題は残るのだ。船内において「感染症の集団発生」を起こした原因として考えられている、乗客に感染患者が出たという告知が遅れたこと、レストラン閉鎖やイベント中止などをすぐ決めなかったこと、乗客に部屋に閉じこもる勧告をすぐしなかったこと、食事配膳において感染対策を徹底できなかったこと、それらの理由はなぜなのか、本当に「運送人の支配を超える事由、不可抗力」であるのか、「運送人の過失」にはあたらないのか、問題はいくつも出てくるのだ。
ことほど左様に、ダイヤモンド・プリンセス号でおきた事案を、この約款だけで判断することは不完全である。「運送人の排他的支配を超える事由」「運送人の過失によって引き起こされたとは判断されない作為又は不作為」とは一つ一つの事案を、さまざまな証言に照らし合わせることをしないでは、決められないのではないか。
私は気になって、日本のクルーズ船の約款をしらべてみた。
たとえば「飛鳥U」、日本郵船のグループ会社である郵船クルーズ株式会社の所有している船である。この会社の「郵船クルーズ株式会社 クルーズ船旅客運送約款」(注13)、第5章賠償責任 第13条(当社の賠償責任)ではこう書かれている。
「1 当社は、旅客が本船の船長又は当社の係員の指示に従い、乗
船港において乗船手続きを完了し、本船の舷門に達した時から下船港
において本船の舷門を離れた時までの間に、その生命又は身体を害し
た場合は、これにより生じた損害について責任を負います。
2 前項の規定は、次の各号のいずれかに該当する場合は、適用
しません。
(1)船舶に構造上の欠陥及び機能の障害がなく、かつ当社及びその
使用人が当該損害を防止するために必要な措置をとったか、又は不可
抗力などの理由によりその措置をとることができなかった場合
(2)旅客又は第三者の故意若しくは過失により、又は旅客がこの運
送約款を守らなかったことにより当該損害が生じた場合」
プリンセス・クルーズ(社)の約款は運送人(船)の責任を何ら言わず、責任にならない事柄だけを並べたてている。これに反して郵船クルーズのほうは何らかの損害が起きた場合は、まず船社が責任を負うことが明記されている。この責任範囲にたいして例外規定を設けている。両者の考え方は、まるきり逆を向いたものだ。乗客にとっては、後者の方がどれほど安全かはすぐ分かるだろう。
つぎに医療に関する項目を念のためにみてみよう。そこにはつぎのように書かれてある。
「第13条 健康、医療その他の個人的なサービス
海上を航海し種々の港に寄港する性質上、医療機関の利用が制限され
又は遅れが生じ、本船の航行地からは緊急医療救助を受けることができ
ない事態が発生する可能性があります。貴殿の本クルーズに関連する全
ての健康、医療、その他の個人的なサービスは、これらサービスの費用
を負担するゲストの便宜のために提供されます。貴殿は、貴殿のリスク
と費用で、運送人に一切責任を負わせることなく、本船及びその他の場
所で利用可能な医薬品、医療処置、その他個人的なサービスを受け又は
利用し、貴殿のために発生した一切の医療費、救助費用、その他費用に
ついて運送人に補償することに同意します。運送人は医療の提供者では
ありませんので、医師、看護師、その他の医療関係者又は職員は、直接
ゲストのために働くのであり、運送人の管理又は監督のもとで行動して
いるとはみなされません。運送人は、かかる医療従事者の医学の専門医
術を監督するものではなく、医師又は看護師が貴殿に対して検査、助言、
診断、投薬、治療、予後又はその他の専門的サービスを提供し又は提供
しないことによって生じた結果について責任を負いません。
同様に、これに限定されませんが、全てのスパ職員、インストラクタ
ー、ゲスト講師、エン ターティナー、その他のサービス職員は、直接
ゲストのために働く独立した業者であるとみなされるものとします。」
私は約款を書き写していて、はじめて隔離中に抱いた疑問の一部が氷解した、と同時にとんでもない約款だと思わざるをえなかった。どうしてあの不幸に見舞われ、亡くなった夫は部屋に放置されたのか、どうして感染者が隔離もされず、ふたたび家族あるいは友人のいる部屋に戻されたのか、どうして病室の前に患者が長蛇の列をつくり順番を待たなければならなかったのか、これらはすべて船主(プリンセス・クルーズ⦅社⦆)の責任ではなく、サービスを提供する業者である医師の責任であるというのだ。
しかし、2,3名(この人数は想像である)しかいなかったであろう医師が、2千名もの乗客を相手にできるわけがない。では救援のメディカルスタッフの手配はどちらの責任なのか、船主か業者である医師側か?社長のジャン・スワーツが隔離中、「緊急アシスタントチームを発動した」だの「日本へ上級幹部を多数派遣」だのといいながら、医療の救援チームを手配しなかったのは、あのような緊急時になっても「運送人」にとっては責任外であるからなのか?それは書かれてはいない。あるいは、これ以上の医療責任は隔離をした厚労省にあるのだろうか?しかし長崎のコスタ・アトランチカ号では、隔離をされながらも、船社の救援チーム4名が乗船しているのだ。
この「旅客運送約款」なるものを、私はネット検索で発見し、17ページにも亘る内容を読み、了解するか否かは別として、この時期になってようやく理解した。しかしこのような約款とは別に、私の記憶にこびりついていたのは、旅行案内パンフに写真入りで載っていた、メディカル・センター(医務室)医師二人の微笑んでいる顔であった。あの写真によってこそ、診療費用がクルーズ料金とは別立てだとしても、安全のために船社によって、船社の責任で、医師は乗船していると、乗客が理解してしまうことは当然ではないだろうか。
私たち夫婦は、旅行代理店が企画するどんな団体旅行にも属さず、しかし旅行代理店をつうじてチケットを買い、ダイヤモンド・プリンセス号に乗船した。渡されたチケットとともに、このような膨大な「旅客運送約款」なるものを渡されたか否かは、すでに忘却の彼方である。もし渡されたとしても、ちゃんと読みこんだかどうかもわからない。
しかしもし読み込んで、理解していたなら、乗船しただろうか。読み終わった現在なら、けっしてできないだろう。それほどこの約款にはもしもの時の危険が満載されていると思った。さらに、あのご夫婦の悲劇が、このような約款ととうてい釣り合うものではないことも、当然すぎるほど当然なのだ。
もしもの時にはすべてが自己責任で対処しなければならない、そのような危険な約款について、国交省は知らないわけがない。あるいはそんなことは、船主と乗客、当事者同士の問題で第三者が口をだすことではないし、また些事として問題にすらならない、そう考えているのかもしれない。しかし、観光立国の名のもとにこのような安全対策を二の次にし、巨大クルーズ船(巨大グローバル企業)を呼びこむ先兵となっている国交省とは、どのような組織なのか。
私はすこし想像をたくましくしてみる。
このような観光の構造は、IR(統合型リゾート)構想とどこか似ているのではないかと思ってしまうのだ。IRもさまざまな問題、危険を指摘されながらも、観光立国のため、巨大な外資を呼びこもうとしている点ではクルーズ観光事業と相似形である。クルーズ業界では各地港湾が大型船呼び込みに名乗りをあげているように、IRも各地主要都市が名乗りをあげている。しかしこちらは計画が明確化、現実化するまえに、すでにもう利権政治家が摘発され、裁判になってしまっているありさまだ。
なぜこのような例を書きだすか、その理由は、国交省が地方港湾と手を組み外国のクルーズ船を誘致するという裏側には、利権にまみれた政治家がいるのではないか、IRと同じではないかということだ。
政府が「GoToトラベル事業」を、感染が地方に広がるようなエヴィデンスはない、などと寝言を言いながら強行し、昨年の暮れ見事第三派感染蔓延をまねいてしまったこと、それは記憶にあたらしい。このような醜態のうらには、観光族議員がいるだろうことは国民のだれもが想像していることだった。
同様に、観光族議員が国交省、地方の港湾と手を結び、あるいは人事権によって官僚や地方行政を“指導・指示”しながら、外国クルーズ船主の先兵となって動いていることは想像可能なのだ。断っておくが、これはすべてのクルーズ船主の問題ではもはやなく、繰りかえすが利権にまみれた日本の政治家が手を下している統治構造の問題なのである。
(続く)
※続きは『風の森』第2次第10号(12月発行)にて掲載。
注12:プリンセス・クルーズ旅客運送約款
Passage_Contract_ja_2020_updated (princesscruises.jp)
https://www.princesscruises.jp/pdf/Passage_Contract_ja.pdf
13:郵船クルーズ株式会社:クルーズ船旅客運送約款
provision011.pdf (amazonaws.com)
https://asuka-web.s3.ap-northeast-1.amazonaws.com/wp-content/uploads/2017/01/11174948/provision011.pdf

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