2011/3/6  21:27

合築と単独の比較9  

 合築と単独の比較表を見ていく。

 「分館・分室への支援」という項目で、単独の場合は、県にはない業務だが、合築の場合、

(1) 市固有の業務であり、単独と変わらない
(2) 県立の資料が市民のシステムに乗ることから、高知市民の利便性
 は高まるが、一方で高知市民以外にとっては、県立の資料が流出す
 る懸念がある
(3) 新システム移行のために、コンピュータシステムの見直しが必要
(単独でも更新時期)
(4) 業務量に見合った体制の確保が必要

 と書いてある。1はナンセンスな物言いだが、2〜4はどうみてもデメリットにしか見えない。

 とくに2は県のお金で買った本を大量に高知市民のためにつぎ込むということで、高知市民にとってはいいが、他の、とくに遠いところの県内市町村の人のためには何もならない。

 今度の合築案はこういうところをうまく使っている。

 つまり、高知市とその近辺の人は自分たちにとっては得かも知れないので賛成する人も多く出てくる。また一方で、県内で遠いところの人は、どうせ関係ないと思って関心すら持たない。

 こういう騙しのようなことをやっていいのかと思う。

 行政として哲学を持つべきではないか?

 これでは最大多数の最大幸福と言った功利主義(ユーティリティズム)の昔に逆戻りしてしまう。サンデル先生の政治哲学の本でも読んで勉強してほしい。

 功利主義のベンサム氏は自分のミイラ化に失敗して、おぞましいというより、もはやひょうきんな生首(もとい、失敗ミイラ首)をロンドン大学に保存している。

 功利主義の末路はこういうことだからよく覚えておいた方がよい。

(下のリンクは心臓の弱い人は見ない方がいいかもしれない)
http://blog.beliefnet.com/crunchycon/Jeremy_Bentham.jpg

 功利主義的に言えば、高知県人口の約半数が集まる高知市近辺の人が便利になるからいいではないかという話になりますしね。これに、地方自治法の最小の経費で最大の効果などという話を持ってくればぴったりだ。

 しかし、こんなことを言ってしまったら、高知県自体に投資するのが日本全体としてもったいないということに気がついてほしい。東京近辺に集中投資した方がよいという理屈と同じなのだ。高知県人口は世田谷区より少なく、高知県がなくなったからと言って、日本全体が困るかというと、せいぜい生姜が少なくなって困るくらいなのだ。

 こういう理屈というのは、人の生活も地域の文化も否定した理屈でしかないのである。

 同じように、高知県内のどんなに小さい限界集落だって大事にしなければならない。

 それが地方自治というものだ。

 ところで合築は高知市民にとっても損なところがある。結局、高知市で買った本も県内全体にまわさなければならないからだ。

 県の本を市民に提供して、市の本を県民全体に提供するのだから、相殺していいではないか、と思いますか?

 これこそ相殺の反対だ。二重行政になってしまうのだ。市の本を県内の遠いところに貸し出したとする。すると、市の人が予約をかけたときに文句を言う。ちっとも返って来ないからだ。図書館としては、金で解決してもう1冊買ってしまう方がラクかもしれない。
 県の本を分館を通して市民に貸し出した。この本に県内の遠いところの市町村から協力貸出依頼があった。市民に貸してるから待ってくれと言ったら、やっぱり県立の機能が低下しているではないかと言われかねない。これももう1冊買ってしまえとなる。
 こうして無駄な複本が結局増えてしまい、合築の意味などなくなる。

 それぞれ、県と市に分かれて業務分担していれば、文句の出ようがないし、将来的に、県立は都立図書館のように協力貸出しのみで直接貸出ししないという選択肢も取れるのだ。

 そういう意味では県立の将来性をつんでしまう。

 ひたすら、利用が多そうなベストセラーばかりの図書館になりかねない。これは一度やったら引き返せない。

 こういう細かいわかりにくいところを小細工するためにコンピュータ・システムをいじくるとさらにお金がかかる。このメンテナンス経費もかかるし、修正もしょっちゅう必要となるだろう。

 そしてこのシステムは日本唯一だから全然汎用性がない。いつまで経ってもコスト・ダウンが図れない。

 ということで4の業務量に合った体制など本当に組めるのだろうか?

 デパートとスーパーを一緒にするような発想は失敗する。そういう例がなかっただろうか。
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