2020/5/1 22:45
宇佐美先生から子供たちへメッセージ 活動報告
水月の子供たちに、宇佐美先生からメッセージが届きましたので、
ブログに掲載させていただきます
こころに太陽を持て くちびるに歌を持て
宇佐美進一
やく2か月、皆さんは、よくがんばってくれました。よくしんぼうしてくれました。
ともだちと会って遊びたかったでしょう。学校へ行って勉強したかったでしょう。
剣道も、3月8日いらい、ずっと休みです。思い切り体を動かしたくなったでしょう。
わたしも同じです。
テレビのスイッチを入れると、
「ステイ・ホーム(お家から出ないでください)」
という呼びかけが、いくども聞こえてきました。
ずっと家にこもっていると、イライラすることもあるでしょう。
そんな時に大切なのは、笑顔です。そして、挨拶(あいさつ)です。
「おはようございます」・「いただきます」・「ごちそうさまでした」・「おやすみなさい」は、
もちろんですが、もっと大事なのは、「ありがとう」・「ごめんなさい」です
いつも笑顔で「ありがとう」と言える人は、「こころに太陽を持つ」温かい人です。
自分に三分の理があっても、七分の非があれば、「ごめんなさい」と言いましょう。
この連休中の「ステイ・ホーム」は、長い時間を家族と過ごすまたとないチャンスです。
歌は、気持ちをなごませてくれます。みんなで歌ったり、1人が歌うのをみんなで聞いたり。「歌あればこそ世は楽し」です。
わたしが子どものころ、日本は「15年戦争」の最中でした。アメリカの飛行機の爆撃をさけるため、灯火管制(とうかかんせい)といって、電灯を黒い布でおおい、その下の卓袱台(ちゃぶだい)とよばれたテーブルを囲んで、ご飯を食べたり、本を読んだり、歌をうたったりしました。その小さな幸せは、すぐに吹き飛びました。
1945年3月10日、東京大空襲(くうしゅう)があり、焼夷弾(しょういだん)の雨がふり、ひと晩で、10万人が焼け死にました。
すぐに、3年生の私と1年生の弟は、親元離れて、茨木県へ疎開(そかい)しました。
3月10日の空襲からはまぬかれた池尻(いけじり)の家でしたが、5月24日の3度目の大空襲で丸焼けになりました。(父は戦地)祖母・母・妹2人の4人は、煙と火の中を逃げ惑ったといいます。
わたしと弟は、個人疎開していた茨城県から長野県へ集団疎開。さらに、祖母・母・妹の疎開先、新潟県の佐渡島(さどがしま)へ移りました。
佐渡島でほぼ1年を過ごした8月6日広島、9日長崎にアメリカの原子爆弾が落とされ、数かぎりない人々が殺されました。8月15日、日本は、敗戦。
1946年3月、東京に戻り、下北沢の借家住まい。戦後の食糧難の日々でしたが、母は笑顔と歌を絶やすことはありませんでした。
現在、コロナ戦争の真っ最中、世界中が見えない小さな強敵と戦っています。
みなさんも、笑顔と歌を武器にして戦ってください。
本を読んだり、素振りをしたりもお忘れなく。ご無事を祈っています。お元気で。
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ブログに掲載させていただきます
こころに太陽を持て くちびるに歌を持て
宇佐美進一
やく2か月、皆さんは、よくがんばってくれました。よくしんぼうしてくれました。
ともだちと会って遊びたかったでしょう。学校へ行って勉強したかったでしょう。
剣道も、3月8日いらい、ずっと休みです。思い切り体を動かしたくなったでしょう。
わたしも同じです。
テレビのスイッチを入れると、
「ステイ・ホーム(お家から出ないでください)」
という呼びかけが、いくども聞こえてきました。
ずっと家にこもっていると、イライラすることもあるでしょう。
そんな時に大切なのは、笑顔です。そして、挨拶(あいさつ)です。
「おはようございます」・「いただきます」・「ごちそうさまでした」・「おやすみなさい」は、
もちろんですが、もっと大事なのは、「ありがとう」・「ごめんなさい」です
いつも笑顔で「ありがとう」と言える人は、「こころに太陽を持つ」温かい人です。
自分に三分の理があっても、七分の非があれば、「ごめんなさい」と言いましょう。
この連休中の「ステイ・ホーム」は、長い時間を家族と過ごすまたとないチャンスです。
歌は、気持ちをなごませてくれます。みんなで歌ったり、1人が歌うのをみんなで聞いたり。「歌あればこそ世は楽し」です。
わたしが子どものころ、日本は「15年戦争」の最中でした。アメリカの飛行機の爆撃をさけるため、灯火管制(とうかかんせい)といって、電灯を黒い布でおおい、その下の卓袱台(ちゃぶだい)とよばれたテーブルを囲んで、ご飯を食べたり、本を読んだり、歌をうたったりしました。その小さな幸せは、すぐに吹き飛びました。
1945年3月10日、東京大空襲(くうしゅう)があり、焼夷弾(しょういだん)の雨がふり、ひと晩で、10万人が焼け死にました。
すぐに、3年生の私と1年生の弟は、親元離れて、茨木県へ疎開(そかい)しました。
3月10日の空襲からはまぬかれた池尻(いけじり)の家でしたが、5月24日の3度目の大空襲で丸焼けになりました。(父は戦地)祖母・母・妹2人の4人は、煙と火の中を逃げ惑ったといいます。
わたしと弟は、個人疎開していた茨城県から長野県へ集団疎開。さらに、祖母・母・妹の疎開先、新潟県の佐渡島(さどがしま)へ移りました。
佐渡島でほぼ1年を過ごした8月6日広島、9日長崎にアメリカの原子爆弾が落とされ、数かぎりない人々が殺されました。8月15日、日本は、敗戦。
1946年3月、東京に戻り、下北沢の借家住まい。戦後の食糧難の日々でしたが、母は笑顔と歌を絶やすことはありませんでした。
現在、コロナ戦争の真っ最中、世界中が見えない小さな強敵と戦っています。
みなさんも、笑顔と歌を武器にして戦ってください。
本を読んだり、素振りをしたりもお忘れなく。ご無事を祈っています。お元気で。

2020/5/2 9:20
投稿者:横山丈太朗
メッセージをありがとうございました。
僕の家族はみんな元気です。
僕は家でトランポリンや、トランプや、ビンゴをしてあそんだり、僕は本もたくさん読んでいます。
毎日友達と遊べなくてつまらなくて笑顔がきえていたかもしれませんが、せんせいの文を読んで笑顔を忘れないようにしようと思いました。
早くコロナがなくなって、みんなと会って、剣道の練習や、友達と会いたいです。
先生も気をつけてください。
横山丈太朗