2014/6/2

佃の渡し  短歌

今日のお話「〜の渡し」というと、細川たかし「矢切の渡し」が有名になって今の人にも川や堀を渡す小さな船便ということは知られている。矢切の渡しは江戸川を渡すので大きな川だけど「佃の渡し」というのは隅田川の中の小さな島である佃島に橋がなくて、やはり小さな渡し船があったのだ。いまは佃大橋という道が出来て、島だか何だかわからなくなってしまったが、昔一回だけ乗ったことがあった。確か東京オリンピックの年で、そのころには島の片側には道が付いていたような気がするのだが例によって記憶はあいまいだ。
その船は隅田川を行く水上バス(昔の型)よりずっと小さくて、でも手漕ぎの和船でも屋形船でもない、エンジン付きの船だった。距離も短くて、五分ほどでついてしまうものだったけど、かなりな人数(でも十人位)が乗っていたのは、そのすぐ後で廃止になったからではないかと今思う。多分佃島から対岸の中央区の方に帰り道をのったのだろう。

佃島と言うのは元々隅田川の河口にあった砂州で江戸の出来る前は隣の石川島などと共に海の小島と言っていいほどの物であった。徳川家康が本能寺の変で堺から逃げ帰る時大阪の「佃」と言う所の漁師たちに所領を約束して船を用意させたと言う逸話があり、家康が江戸の町を開いた時にその漁師たちも移ってきて、砂州を盛り土して島と成したという。漁師の島だったので住吉神社がまつられ、江戸後期には石川島と地続きになったらしい。「佃」から漁師が来たので名をとって佃島としたので、そこでとれた小魚を醤油煮にしたものが「佃煮」である。近頃は行かないがテレビなどの紹介で見ると、「佃権」などの古い佃煮屋はきれいになっても昔の面影を残して観光客を呼ぼうとしているみたいだった。
江戸の町は水路の発達で交通も物資輸送も船に頼ることが多く、便利な物であった。近代に至って鉄道やトラックなどの運輸が出来ると川や掘割は埋められ橋が架けられて、渡しは無くなって行った。隅田川は海運や浚渫船が多く行きかっていたが、私が佃の渡しに乗った東京オリンピックの年あたりから少なくなり、今ではスマートな水上バスが走っている。それが観光だけでなく通勤の足にもなりつつあるというのは目出度いことではないか。

佃島の中にはいまも昔の下町風な家並みがあるというが、石川島の方は高層マンションが立ち並び永代橋を車で走っていくと川の中に高層建物が天に向かってそびえている塊が出現する。その両岸も高層マンションの並びだから、まるでマンハッタン島ではないかと目を疑うのはわたしが昔「キングコング」の(古い方の)映画でニューヨークの摩天楼というものを認識した世代だからかもしれない。

大川を渡し渡され佃島夢回るうち摩天楼建つ  多香子
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