2019/8/9

唱歌「われは海の子」  

昭和32年ごろ、祖母の小田原の別荘を売った後で、わが家は房州の金谷と言う海辺の町に新しい別荘を建てた。小田原が如何にも文士の別荘街のような所で、暗い日本家屋であったのに対して、父は子供と楽しめる明るい場所を求めたのだろう。
今の人が「別荘」と聞くと大したものにおもうかもしれないが、建物だけは文化住宅のようなダイニングに大きなガラス戸の開放的な物だったが、私達子供は土地の子たちとまじって、同じ様な暮らしを一夏するのだった。真っ黒に日焼けして、海水パンツで一日を過ごしていた従兄弟や弟たちは「われは海の子」そのものだった。

私が「われは海の子」の曲を知ったのは、幼稚園のころ親戚のお兄さんがハモニカで上手に吹いてくれた時だった。祖父が「われは海の子」というのだと、歌詞も教えてくれたが難しくてよく分らなかった。

「われは海の子」文部省唱歌 (明治43年)

1)われは海の子白波の さわぐいそべの松原に
 煙たなびくとまやこそ わがなつかしき住家なれ

2)生まれて潮に浴(ゆあみ)して 浪を子守の歌と聞き
 千里寄せくる海の気を 吸いてわらべとなりにけり

「とまや」は苫屋で粗末な小さな小屋の事だが、子供にはなんのことか分らなかったし、少し大きくなっても葭簀張りの「海の家」位のものかなあと思っていた。房州の家は目の前がフェリーの船着き場の湾で、堤防があったが、松原はなかった。でも小田原より海が近く、船着き場で叱られるのをものともせずに泳ぎ回っていた。従兄弟たちが20人近く集まることもあり、皆泳ぎ自慢だったから大きい子が小さいこの面倒を見て、恐れ気も無く湾を横断したりした。(事故は無かったが今では考えられない事だ)

夜光虫とたわむる楽しさ子等はまだ夜の波止場に泳ぎていたり  多香子
4



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ