2020/10/23

上野「永藤パン」のこと  

私が三歳で上野に引っ越した時、戦後すぐの上野広小路は、焼け残ったところにいくつかのお店が再開されて、弟が生まれたころには映画館やデパートも物が出始めていた。(アメ横は進駐軍の横流し品の場所だった)母は子供を連れてお買い物のついでにはデパートの食堂か「永藤の喫茶部」でお昼をたべる事があった。

母は祖父がハイカラ好みだったので、パンはもとより三時のお茶という習慣も戦前からしつけられていたのに、戦争中に食品も無くなり哀しい思いで暮らしていたから、戦後の(すぐは戦中よりずっと大変だったと話していたが)闇でも物が手に入るようになると、子供に「おやつ」の習慣をつけるようになっていた。
家の近くにもパン屋さんはあり、駄菓子屋禁止だったけどそのパン屋さんの仕入れるお菓子は買ってもいいと言われていた。(小学一年までしかいなかったので、私はお買い物はしなかったけど)それでもお出かけ(デパートに行くのも洋服を着替えて「お出かけ」だった)の時は池之端まで都電に乗って「永藤」で「ホットケーキ」を食べる楽しみがあった。

永藤はもとからのパン屋さんだから「シベリア」とか杏ジャムの入ったジャムパンなど、安くはないけれど美味しいパンを売っていた。ホットケーキは家でも焼いてくれたけど、まだ材料が十分でないのでふくらみが悪く、祖母も奮闘してケーキを作ってくれても(それなりにおいしいけれど)今三ぐらいの出来だった。

私の永藤のお店の記憶はラジオで洋楽のかかった石畳みの床や広いホールなのだが、子供だったから大きく見えたのかもしれない。この文を書くのに、ちょっと検索をしたら昔の「永藤」の建物の写真が出てきて、懐かしいというより驚きだった。ネットは便利というだけでなく多くの人が記憶の証を載せてくれているからこそ、話はつながっていくのだなと思った。永藤はビルを建て替えて、飲食店に貸しているうちにとうとう自分の店も畳んで、ビルに名前が残るだけになってしまった。

グローブの形だったねクリームパン、角のパン屋も閉めてしまった   多香子

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